2009年3月11日水曜日

長良川:スタンドバイミー1950


● 松田悠八著 「長良川 スタンドバイミー1950」


 「おくりびと」を書いていたとき、濃厚に頭に巣くっていた本がある。
 松田悠八著「長良川 スタンドバイミー1950」

 「第一章 緩やかな死」から抜粋で。

 (父は死んだのか)
 それならまず医師を呼ばなければならないと思い当たって、ぼくは息を飲んだ。
 (母が父の死体に手を加えている‥‥)
 目の前で起きていることが現実だとはどうしても思えず、まるで映画を見ているようだった。
 母はひとりで勝手に父の死を確認し、死体を処理した。
 しかし、それは医師の仕事ではないのか。
 何気なく進行する事実と、死の重みがぶつかり合う。


 のっけの第一章から死体処理がはじまる。


 母は吐く息で「ナンマン」、吸う息で「ダーブ」と慣れた調子で経を唱えながら父のそばに戻り、今度は死体を拭きはじめた。
 うたうような経に乗って、口、耳、鼻と、体の開口部へ次々に綿が詰められていく。
 ちょうどそれは、孫のための小さな布団に綿を詰めるときの手馴れた作業にも似て、淀みなく軽々と進んでいった。
 これほど確信に満ちて仕事をする母は見たことがない。
 ぼくはただぼう然と、その横顔を見つめていた。




 はじめに述べておくが、この本は松田氏の奥さんから家人に贈られたものである。
 学生のとき、クラブが一緒であったよしみである。

 抜粋を続ける。


 こんなふうにして、跡取りのいない家へ親類から乳飲み子を連れてきてあてがう強引と、死んだ家族の体に家の者が綿を詰めるという遺習とは、いったいどちらが古いのだろうか。
 少なくとも母はその両方を知っている。

 そしていま、父の体の穴に綿を詰めている。
 長い間に積み重なった「怨みつらみ」を父の体に押し込んで、母はいまそれらを封印しているのだ。
 そうであれば、ここで死体になった父に何をしようと許されるのかもしれないと、今度は奇妙な共感が湧き上がってきた。
 母はもうずっと昔から自分が教えられたやり方で人の生き死にを推し量り、死体に綿を詰める作業を行なってきた。
 父が診てきた医師が生まれるよるはるか前から。

 人が死んだら、あわてず騒がず、体じゅうの穴を閉じてやり、死に水をとって医師を待つ。
 父が死んだのは母にとって特別なことでも何でもなく、日常の出来事のひとつにすぎないのである。
 そう思い至って、ぼくはもうどきどきするのを止めた。
 父の死は、母のやり方にしたがって流れに乗りはじめている。
 もう周りでどうこう言うことではない。

 母は父をころんと転がして新しい寝間着を着せ、仰向けにして両耳と鼻の穴に綿を詰めた。
 形を整えるように小鼻を何度かつまんだのが最後の仕上げて、それが終わると母は小さく
 「よっこいせ」
 と言いながら立ち上がった。



 「死んだ、いうのはどうやってわかったんや?」
 「そりゃ、息でわかる。
 吸う息がだんだん小さくなっていくんや。
 空気がだんだん要らんようになるんやなあ。
 そのぶん吐く息は、長あーなって、生きとったときのゴー(注:業?)がすーっと出てくんや」
 「ほーん、そうなんか」
 「そうやて。
 おとうちゃんも、これでやっと楽んならっせったわ。
 ゴーが出てったら、今度は変なもん入ってこんように、すんにふたをしたらなあかんでな。
 いまそれが終わったとこや」




 なんともスゴイ。
 上の部分は「業が出てったら、今度は変なもんが入ってこんように、すぐに蓋をしなけりゃあかんでな」であろうと思う。
 

 この作品、回想録なら何も言うことはない。
 が、小説なら少し、そして明らかに散漫である。
 上のように個々はまったくすばらしいのだ。
 文間にのめり込んでしまう。
 ところが、突然、目先が変わってしまう。

 私は松田氏にも、奥さんにも面識はない。
 この本を読んで名前を知ったにすぎない。
 よってどうも、いつものように過激な批評になってしまう。

 中身は父親の死から葬儀への部分に当たる「長良川」と、その父の死から少年時代を思い起こす「スタンドバイミー1950」の2本が、輪切りにされて続けられるのである。
 ネギ、鶏肉、ネギ、鶏肉といった焼き鳥のように、長良川、スタンドバイミー、長良川、スタンドバイミーとつなげられていく。
 焼き鳥はそれでおいしいが、小説はそうはいかない。
 盛り上がるときは一気にもり上がって、その余韻で終末まで導いてもらわないと、読み手の気がウロウロしてしまう。
 せっかく盛り上がった興が一瞬にそがれてしまう。
 別々になるべき内容を無理につなげて、1本の長編にしてしまったことで、焦点がボケてしまったように思う。
 個々の2本の作品として仕上げるべきではなかったのではないだろうか。
 なにか、とてももったいないような気がしているのである。


 なを現在、この本を原作にして映画化が進められていますので、紹介しておきます。


★ 中日新聞 2009/2/26
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20090226/CK2009022602000021.html

 「長良川スタンドバイミー」映画化、岐阜出身、小島信夫文学賞の受賞作


 岐阜市出身の芥川賞作家、故小島信夫氏にちなむ小島信夫文学賞受賞作「長良川スタンドバイミー1950」の映画化を成功させる会の設立総会が24日、岐阜市の岐阜グランドホテルで開かれた。

 作品は岐阜市出身の松田悠八さん(69)の少年小説で、1950年代の岐阜を舞台に少年たちの友情を描いている。成功させる会は昨年11月に発足。現在会員は、岐阜市など長良川流域に住む市民や地元企業関係者ら約160人。

 設立総会には会員ら約100人が参加。会長を務める愛知県刈谷市の作家、青木健さんは「長良川流域の市民の支えを得て、良い映画にしたい」とあいさつ。会員増への協力を呼び掛けた。

 今後毎月1回、映画にゆかりのある地でフォーラムを開くほか、年4回会報を発行。来年3月の撮影開始、2011年の封切りを目指している。

 会員を随時募集中。問い合わせは事務局(ハロー&まじょハウス内)=電058(264)5080=へ。



 ダウンタウン・ヒーローズは原作と映画がまるで違う。
 果たして、この作品は映画になったとき、どんなストーリーと映像をもたらしてくれるのだろうか。


 「小島信夫文学賞」を「小島信夫」の項目から。


 
執筆以外の活動
 1999年、郷土の岐阜県に氏の文学活動を顕彰して小島信夫文学賞が創設され、生前は授賞式などに参加した。
 2005年7月および2006年3月の二度にわたり、小説家保坂和志との対談イベントが企画され、会場に集まった多くの聴衆を時おり爆笑に誘う独特の語りをみせた。
 一般の読者や出版関係者以外にも大勢が来場した。
 1回目の対談の模様は、新潮社の「考える人」(2005年秋号)に掲載。
 また2回目の模様は、草思社より2006年10月にDVDブックとして発刊される予定だったが実現しなかった。



 サイトから。


★ 小倉理恵の日記 2008/11/29

劇映画『長良川スタンドバイミー1950』始動!!

 この間の月曜日、岐阜市のホテルで「劇映画、『長良川スタンドバイミー1950』を成功させる会」というパーティが行われました。
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 また、番組でもご紹介していきますね。




★ 小倉理恵の日記 2009/02/21

劇映画「長良川スタンドバイミー1950」

 以前番組でもご紹介しましたが、岐阜で映画をつくろうというお話があります。
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 「長良川スタンドバイミー1950を成功させる会」では、会員を募集しています。私も会員です。
 詳しいお問い合わせはこちらまで、
事務局(ハロー&まじょハウス内)=電058(264)5080=



 最後に「あとがき」を抜粋で。

 この作品が第3回小島信夫文学賞を受賞した際に、「岐阜弁が生きていて、物語を引っぱっている」という批評を頂いたことは何よりうれしく、田舎の言葉にこだわってきてよかったと、ひそやかに確信を得たのだった。
 高校卒業後、岐阜を離れてもう四十年以上になるけれども、登場人物たちの使う言葉はどうしても岐阜弁でなければならないと思った。
 いわゆる標準語では、気持ちや情感がうまく乗らないのである。
 あの頃の生気を再現するには、まず第一に気持ちや情感が伝わらなくては話しにならない。
 極端に言えば意味などあとからついてくればいいのだ。
 幸い、長いこと東京暮らしを続けているおかげで、岐阜の言葉がぼくの中で、大げさに言えば純粋培養されていて、長良川のことを思えば人物が自然に話しはじめた。
 もちろん、生まれ育った地(それは同時に「血」であると思う)と言葉への、どうしようもない偏愛もある。
 しかし、それだけではない。
 九州の言葉ほど強くはなく、東北の言葉ほど粘っこくはないのだが、京都大阪あたりの関西風をも採り入れてどことなくのんびりと柔らかい岐阜の言葉は、ひょっとすると「加速することを止めて、穏やかになったこの時代」に、人の心を癒す本来の力を発揮するに至ったのではないかという気もしている。
 (地名や人名については作者の記憶・想像上のものであり、必ずしも実際のものと一致しないのでどうぞご諒承くださるよう。)

 なを、表紙の古布画は、数十年も長良川の畔に住む腹心の姪、永井典子の作品である。

 2004年晩夏     松田惣八



 映画化が成功しますように!
 



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