2009年2月28日土曜日

余白のあるカンヴァス 生と死と:「おくりびと」


● 1976/11


 最近読んだのがこの本。

 二、三日前に、映画のアカデミー賞で
納棺師を題材にした「おくりびと」がアワードをとった。
 世界百カ国で上映される予定だという。
 来たらぜひとも観てみたいと思う。

 この本「余白のあるカンヴァス 第25章:生と死と」から抜粋で。


 アメリカ人の中には、家族で旅行に出る場合は、事故にそなえて、たとえば母親とある子供が一機に、そして別の子供と父親とがもう一機に乗るという具合に、別々に旅行する者もあることを話すと、マスオはすっかりびっくりしたようだった。
 アメリカ人は、マスオ(注:池田満寿夫)をつかまえては、日本人の死に対する態度について問い質そうとする。
 彼らの心の中では日本そのものを象徴することども、すなわち切腹(ハラキリ)だの心中だのといった、アメリカ人のものの考え方とはまったく相容れがたい精神が不思議でならないのだ。

 例の三島由紀夫のセンセーショナルな自殺のことが、ニューヨーク・タイムズの第一面に載ってからは、何週間ものあいだ、私たちは質問の矢から逃れることはできなかった。
 「身の毛がよだつ」と言うものがいるかと思えば、「あれほど美しい精神があるなんて想像もできない」という女性もいた。
 アメリカでは、自殺といえばたいてい絶望のはての行為、病んだ人の行うこととされていて、決して名誉ある行為とか自己犠牲の証などとはみなされない(ただし、芸術家の自殺的な死だけは、ロマンテイックに美化され神秘視されて、彼らは英雄になる)。

 日本人が「英語では”心中”のことはなんて言うんですか?」と訊ね、私が「二人一組自殺(ダブル・スイサイド)」と答えると、たいてい彼らは笑い出す。

 メキシコに行った時、私はまずメキシコ人たちの「死への傾倒と陶酔」とに強い影響をうけたのだけど、その時、いかにアメリカ人が、死というものを否定しているかということに気づいたのだった。
 まるで、「死など存在しない」というフリをすれば、望みどおり意志どうりに死を遠ざけることができる、とでもいうように。
 老齢についても同じことがいえる。
 ところが日本に来て、私はふたたび生と死との密着、生と死とが一体になっているのを感じたのだ。

 私はほとんどその場にいたたまれなくなって、一人ポツンと離れたところに立っていた。
 私たちは火葬場にいた。
 マスオと彼の父、そして親類たちが、彼の母親の骨を長い箸のような道具を使って、小さな陶製の壺に入れている。
 そうしながら、みんなで故人の思い出を話しあっているのだ。
 どうしてこんなことができるのだろう?
 いや、そうではない。
 問題は逆だ。

 「どうして私にはできないのだろう。」

 日本に長く暮らしているドイツ人の友だちは、私に心の準備ができていなくてはショックが大きすぎるにちがいないと心配し、前もって死者に対する日本の習慣をことこまかに説明してくれていた。
 彼女の友人のあるアメリカ人は、とある小さな山村で行われた彼女の夫の母の葬儀に出たのだが、その精神的ショックのために、精神錯乱に陥ってしまったという。
 その場でどういうことが行われるか、彼女は前もって何ひとつ知らなかったのだ。

 私の場合は、あらかじめ大体のことはわかっていた、とはいうものの、それでもなお、アメリカ人としての私の考え方や感じ方が邪魔して、感情的にはとてもついて行けたものではなかった。
「ほら、歯があった。あ、これ頭蓋骨かしらね。」
「いいや、そうじゃないだろう。おおきすぎるよ。どこにあるか捜さなくちゃ。もっと上の方じゃないかね‥‥。」
 ああ、私はなんと自然から遠ざかってしまったのだろう。
 私は麻痺したようにその場に立ち尽くし、そう考えていた。
 1971年10月のことだ。

 ニューヨークでは、父が死んだ時、私たちが検屍官のところに報告すると、まずただちに警官がやって来て(法律でそう決められているのだ)、葬儀屋が遺体を引き取りに来るまで私たちと一緒に座って待っていた。
 バッジをつけて青い制服に身を包んだ警官の巨体は、絵でいっぱいの、東十丁目の父の大切なスタジオの中にあって、実に目障りな要素、勘にさわる存在だった。
 彼の意味のないおしゃべりは、私のもの思いをいちいち粉々にくだいた。
 それから次に、遺体は葬儀場にはこばれ、埋葬の準備がされ、棺の中に納められた。
 そのあいだ、私たちは何ひとつ手を下すことはできないのだった。

 その畳敷きの部屋で、マスオと彼の親戚の者たちは、手ずから彼女の体を清め、経帷子を着せた。
 夜になって、皆がひとりひとり彼女のそばにひざまずき、ある者は話しかけ、ある者は遺体に触れ、ある者は泣いた。
 幼い子供でさえ、彼女の死に顔を見るのだ。
 ニューヨークでは、話題が「死」のことに移ると、子供は席をはずすように言われることを、その時私は思い出した。
 死は子供たちの前では口にできない話題なのだ。
 その晩は私たちも、遺体と一つ屋根の下で寝た。
 翌日、火葬場に着いた私たちは、彼女に最後の対面をし、棺のふたを釘で打ちつけ、棺が炉の中へ送りこまれるのを見守った。
 しばらくのちに、彼女はふたたび出てきた-----盆の上の骨、骨のかけらとなって-----。

 アメリカではいまでも土葬が一般的だけど、火葬にする場合、骨ではなく「灰」が壺の中に納められる。
 壺ごと遺族の家の暖炉の上に置かれていることもあり、灰を撒き、風が吹き運ぶにまかせることもある。
 ある友だちは、ちいさなボートを漕いで、亡き夫が愛してやまなかった故郷に近い海に出、そこに灰を撒いたという。

 長年海外での生活を送っている日本人から、死ぬ時は日本に帰って死にたいという言葉を私はたびたび耳にする。
 はじめてそれを聞いた時、私はぎょっとしてしまった。
 私も相当「死」という想念に取り憑かれている方だけれど、「どこで死にたいか」ということは、それまで考えてみたこともなかったからだ。
 ほかならぬマスオも、今はアメリカ暮らしが大いに気に入っているけど、歳をとったらにほんで暮らすほうが気持ちが安らぐだろう、とよく言う。

 「自分の故国で死ぬ」とはいったいどういうこといなのか。
 マスオはそれを「」のせいだという。
 日本人に独特な現象、「
日本回帰」 なのだ、と。
 彼によると、西洋文化の研究者でさえ、歳をとるにつれて、次第に自国の文化、東洋的な伝統の方に目を向けはじめるのだそうだ。





 もう十余年の昔になる。
 オヤジ様をこの地で見送った。
 「遺体は日本に運びますか、こちらで焼きますか」
 と、問われて、こちらで、と答えた。
 「骨はクラッシュしてしまいますが、いいですか」
 意味はよくわからなかったのだけで、それがこちらの慣習ならそれはそれでいいと思った。
 斎場にいき、最後のお別れをした。
 セレモニーはそれだけ。
 いつ焼かれるかは、斎場の都合による。

 3,4日後に骨を引き取りにいった。
 大きなプラスチックのタッパウエアにぎっしり詰まった灰をビニール袋に入れて「はい」と渡され、持って帰ってきた。
 壺などではなかった。
 まちがいなく「タッパウエア」であった。
 半透明の四角い密閉パック式の、キッチンにおいてあるヤツである。
 隅にそのシールも貼ってあった。




● 斎場明細

 クラッシュとは灰にすること。
 1/4くらいを自宅に撒いて、残りは日本にもって帰り、墓に入れた。
 「これが仏様です」と咽喉仏を見せられたり、丸い頭蓋骨を二人一組でつまんだりすると、「ウーン、これは」と思い墓に入れなければと思うが、クラッシュして灰にしたら、人間かカンガルーかの区別もつかない。
 カンガルーに墓がないなら、人間にも墓などいらない、とそう思っても不思議ではないような気分になってくる。
 風に撒き散らしても、海に流しても、灰なら自然である。
 人間が動物としての種なら、それでもいいと思えてくる。

 この本は33年前のもの、1/3世紀前になる。
 「日本人の血」あるいは「日本回帰」なるものもいまだに主流にあるのだろうか。

 私はあの灰を見たとき、私もああなりたい、死んで形を残したくない、そして海に流してもらいたい、そう思った。

 「生きるとは未練である

 死んだあとも未練の残骸を後生大事に保存されるということは、未練が往生できないということになる。 

 墓などいらない。
 狭苦しい暗い寒い石室に入れられることを考えるだけでゾッツとする。
 「もし骨が風邪をひいたらどうするのだ、可哀想ではないか」
 と、冗談を本気で言ったほど。

 戒名など、金を払ってもらってどうなる。
 自分で好きな死後の名前を作った。
 木っ端で高さ10センチほどの位牌も作った。
 これに黒のメタリックのスプレーペイントを吹きかければ立派な「手作り位牌」ができる。
 これにパソコンで好きな字体を選んで戒名を印刷し、貼り付けた。

 見事みごと。
 これで思い残すことはない、ということにする。
 「墓などいれるな

 「十二支が巡り回ったら、この手作り位牌は焼却せよ」
 子どもが親のわずらいを背負い込むことはない。

 ちなみに、日本にある墓は日本にいるヤツがお参りせよ。
 ご先祖さまが眠っておられる。
 正直なところご先祖さまのことなどまるで知らないのだが。
 日本にいなかったら、どうなる。
 無縁仏にしてしまえ。
 日本では三代で無縁仏になるという。
 おおいに結構。
 何も「血」なんぞに煩わされることはない。
 「家」なんどに囚われることはない。
 そういうしがらみは、正統血筋の私が全部背負ってあの世に行ってやる。
 やはりダンダン発言が過激になってくる。

 てな大言壮語しているが、もしかしたら数代後の子孫は、我がルーツを求めて日本にいくことになるかもしれない。
 なんで、ご先祖様は「家系をぶっちぎってしまった」のだ、という恨みを抱いて。
 それも、歴史のドラマである。
 だから面白い。
 今日の正論は明日の正論ではないのである。


★ 「おくりびと」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=E_z0_MLvwvw






【追記】

 「バグース」の4月号にアカデミー賞の記事が載っていた。
 その一部を抜粋でタイプしてみます。


● BAGGUSE 2009年4月号


★ シネマ 日本映画、悲願の受賞

 発端は、1996年までにさかのぼる。
 主演・本木雅弘と、書籍「納棺夫日記」の出会いだ。
 冠婚葬祭などの携わった青木新門が、自身の体験をつづった著書に感銘を受けた本木は、映画化の許可をとりつける。
 しかし、ロケ地や結末などの相違点を指摘され、一度とりつけた映画化の話が白紙となってしまった。
 あきらめずに何度も打診した本木の思いがかない、「全く別の作品としてやるなら」という意向を受けて、タイトルも一新したのが「
おくりびと」。
 10年以上もの長期間あたためられたこの作品は、厳正な葬儀の場に、笑いも交えながら遺族たちの愛情を描いた、胸に染み入る内容となっている。

 本木演ずるチェロ奏者・大悟は、所属する楽団が解散したため、妻とともに帰郷し、就職先を探していた。
 「旅のお手伝い」というコピーと待遇に惹かれて面接した会社の仕事は「納棺師」。
 故人を着替えさせ、死に化粧を施し、一番美しい状態へと蘇らせたのち、棺に遺体を納める仕事だ。
 ほかにあてがない大悟はしぶしぶ就職を決めるが、徐々に納棺師の仕事に誇りを持つようになる。

 大悟は妻や友人から、納棺師という仕事についてなかなか理解を得られない。
 そのやり取りは、私たちが無意識に抱いている、死というものに対しての偏見を示すようで、思わずドキッとさせられる。
 しかし、ストーリーが進むにつれ、永遠の旅立ちへのサポートをする納棺師という仕事や、死そのものに対しての見方が変わっていくことだろう。
 女性にしか見えないニューハーフ、幼い子どもを残した母親、たくさんのキスマークと一緒に送られる祖父‥‥。
 それぞれにしかないたった一つの人生があり、その人生に関わった人たちが織り成す、たった一つの別れがある。
 深い悲しみと隣あわせでありながら、どこか癒される空気は、決して派手ではないのに観た者の心を打つ。
 久石譲が手がけるサントラ、3月に発売のDVDなどもあわせて、独特の世界観にどっぷり浸りたい。







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2009年2月25日水曜日

雪ダルマとハーフマラソン

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● お雛様


 ブログでいかにもつまらないのは、その人や家族の写真、あるいは友人の写真などが満載されていて、内容があまりにも個人的なもの。
 「別にアンタの写真など見たくはないよ」
と、思ってしまう。
 ちょうど、他人の家にいってアルバムを見せられるときの心境と同じ。
 でもブログって、日記なのだからそうなってしまって当然なのだが。
 でもやはり他人が読むと、「間違いなくつまらない」

 今回の内容はその典型。
 利己的な内容で面白くありませんので、下記をクルックすれば抜け出られるようにしてあります。

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 まず、警告を発してから、おもむろにとりかかる。
 以降はアンタの責任。

 お雛様を飾った。
 娘はもう数年、日本で常住しているので、ここしばらくお雛様を出すことはなかった。
 が、最近まで干ばつを伝えられたこの地も今夏はとてつもない超異常気象。
 雨が降りっぱなし、蒸し暑く、その陽気につられてふだんなら赤茶けて見るも無残になる芝がボーボーになり、あまりに地面が水を含みやわらかすぎて芝刈りもできないほど。
 カビでも生えたらちょっとヤバイな思って、虫干しを兼ねて久しぶりにお雛様を出してみた。
 
 このお雛様の当のお相手たる娘は学校を終えて1年こちらで勤めたあと日本へいった。
 日本の空気が肌にあったのだろう、ズーと居付け続けになっている。
 それから1,2年たって私が久しぶりに日本に出かけたとき会ったら、プルンプルンに肥えていた。
 太ったのではなく、肥えたのである。
 「オー」と手をあげ、そのままごろりと畳に寝転んでしまった。
 何しろ体を動かすことが大儀に思えるほどのもの。
 「まるで雪ダルマ」
 コロコロとよく肥えたものだと、変に感心してしまった。
 色白なので、雪ダルマがピッタンコの「オスガタ」

 こちらで勤めていたころは、肉類は一切食べず、よって家族の食卓に姿を現すことはなかった。
 ために、娘と食卓を囲んだ記憶の映像がない。
 自分で作って皆の食事が終わってから一人ひっそりとささやかな食事をしていた。
 その娘がなぜに雪ダルマになってしまったのか。

 答えは和菓子。
 こちらで育ったため和菓子の味を十分に知らなかった。
 日本に住み始めて「こんなにうまいものがあるのか」と開眼。
 家人の実家がもらい物の多い家だったので、和菓子がくると一人で一箱あけてしまうほど。
 ついに動くのも大儀なほどの雪ダルマになってしまった。


 小学校から中学時代は十分な運動量をこなしていた。
 ハーフマラソンに出場したのは小学生のとき。
 1996年のこと。
 そして「2位」の栄冠に輝いている。
 ハーフマラソンというのは距離「21キロ」のランニング&ウオーキング。
 普通に歩くと5時間ほど。
 結構、長い。
 それを走ったり、歩いたりで3時間ほどで戻ってきた。
 なを、写真の電光掲示板は見るように故障している。
 ビッグイベントにしてはみっともない姿。


 カテゴリーは「14歳未満:Under 14」、つまり13歳以下。
 2位となれば「スゴイ」となるのだが。
 よくみてください。
 そのカテゴリーの参加者は2人。
 つまり「ビリ」。
 3位はいない。
 ちなみに1位は、日本から遠路このマラソンを走りにきた少女。

 2位の賞金はたしか「100ドル」
 娘はこれに「がんばったで賞」を加えて、欲しかったオーデイオを買った。
 Sanyo製。

 このとき着けたゼッケンが残っていましたので載せておきます。


 「749」、上の写真を拡大しますと、その番号がうかがえます。
 この裏にマイクロチップの取り扱いが載っている。
 このときすでに、マイクロチップが導入されていた。



 これ以下、終わりまでハーフマラソンの話が続きますので、興味のない方はクリックしてください。

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 翌年も参加する。
 ハイスクールに進学しているので、中学生である。
 が、「14歳未満」のカテゴリーが廃止されすべて「18歳未満」になってしまう。
 中学生が高校生にかなうわけがない。
 タイムは「3:28:56」で、前回より30分くらい悪い。
 どうしてだろう。

 
 なをタイムに「net time:ネットタイム」と「clock time:掲時タイム」がある。
 参加者が多いと先頭がスタートして、集団の最後尾がスタートラインにたどりつくまで数分かかることがある。
 そのハンデを修正するために「net time」があり、スタートラインを通過したときマイクロチップが動作をはじめ、ゴールラインを越えたときにチップがストップするという、実質のコース所要時間を計測している。
 公式タイムは掲時タイムであるが、カテゴリー順位はネットタイムで統計される。


 
 この年、泊まりがけのマラソン遠征をする。
 場所はサンシャインコーストでおこなわれた「ヌーサ・マラソン」



 現在、ヌーサマラソンはフルマラソンが廃止され「ヌーサ・ハーフマラソン」という名称になり、コースも海岸沿いの往復10kmのコースを2周する形に変わっている。
 このころはまだ一部の幹線道路を使っておこなわれていた。



 ヌーサマラソンは泉州マラソンと提携しており、日本の実業団選手も顔を見せていた。
 このときの優勝者は伴選手で、KURASHIKI-SHI とある。
 ヌーサ・マラソンがハーフマラソンに移行したため、泉州マラソンは現在、ゴールドコースト・エアーポート・マラソンとの提携に移っている。


● Noosa Marathon


 タイムは「2:51:48」と、ついに3時間を切ってくる。



 1998年、中学2年生。





 3年連続の出場。
 タイムは「2:45:35」



 この年はツーウンバに遠征し、ジエットコースター・コースに挑戦する。
 ツーウンバは「フラワーフェステイバル」で有名なところ。
 そのお祭りにあわせて、地元のランナーズクラブがハーフマラソン大会を開催する。

 「ジェットコースター・コースとはなに」
と思われるでしょう。
 下のコース案内を見てください。
 なんとポイントポイントに「海抜」が書き込まれているのです。
 こんなコース案内みたことありますか。




 最も低いところが「550m」、最高点が「710m」、高低差「160m」のコースになります。
 160mとはほぼ50階建てのビルの高さに相当する。
 15kmまでは上ったり下ったりで、いやになってくるコース。
 でも、面白い。
 上りの最後は40mを一気に上がる。
 この上りは鍛えてないとまず歩きになる。
 そして、下りの最後は南北ホントウに真直線の下り坂4キロを転げるように降りていく。
 が、下り終わってから約1キロほどの平坦路がある。
 これがとてつもなくキツイ。
 素人版「箱根駅伝:6区山下り」みたいなもの。
 下り坂のツケがくる。
 フクラハギがパンパンになっており、一歩歩くのもシンドイくらいの状態。
 強烈な足への負担で、下手にすると肉離れを起こす。


● フェステイバルで宿舎がとれず、街外れの商人宿に泊まる

 このコースで雪ダルマは念願の「カテゴリー優勝」を果たす。
 18歳未満のジュニヤ部門である。

 ただし、総合結果は「ビリ」
 皆が走り終わっているのに、まだ走っている(歩いている)。
 いったいどうしたのだろうと、オフィシャルがゴールから迎えにきたほど。
 ドローを楽しみに参加者は待っている。
 が、なかなかラストランナーがやってこない。
 前の走者が走り終わってから約40分後にゴール。
 その間のアナウンスは
 「いまだ女性のジュニヤチャンピオンは走っております」
だったとのこと。
 つまり、18歳未満での女性の参加者は娘一人だったということ。
 でも優勝には間違いない。
 ちなみにローカルイベントで賞金レースではないので、トロフィーのみ。
 所要時間「3:25:50」


● TOOWOOMBA HALF MARATHON 20-9-98
  1st FEMALE - U/18



 そして、中学3年生になる。
 中学最後のレースは「15歳以下」のカテゴリーで「3位」を獲得する。
 今度はビリではない。
 5人中3位である。
 そこそこ納得のレース。
 タイムも過去最高を出す。

 タイムは「2:39:58」


 この写真は公式のもので、下に金文字で「THE GOLD COAST COURAN COVE HALF MARATHON 1999」と印字されているが、コピーの際の光の具合で見難くなっている。
 拡大すると、わずかに判別できます。
 ゼッケン番号は「869」である。

 このときのカテゴリーチャンピオンは同じハイスクールの同学年生。
 彼女は朝礼の時間に校長からコールをうけ、学校賞を贈られた。
 娘はお呼びでなかった。
 変名でエントリーしていたため、入賞したことを校内の誰も知らなかったのである。
 日本からの参加者が多いレースなため、学校関係者はまるで気がつかなかったらしい。
 でも、同じハイスクールから入賞者が2名も出るとは珍しいことである。

 このレースにはさらに大きな話題がある。
 これは「JAL」がスポンサーになった最後のイベントであった。
 JALはスポンサー料を払い込んで、手を引いたのだが、主催者がどうもそのスポンサー料を飲んでしまったらしく、レース後、真っかっかな赤字を残して倒産。
 よって、レース賞金が未払いになった。


● 「3位賞金50ドル」が近々、小切手で支払われますという通知


 優勝したアフリカからの招待選手には賞金が支払われず、弁護士を通じて訴訟になった。
 であるからして、カテゴリー別の入賞者の賞金など支払われるはずもない。
 今後どうするか入賞者が集まってミーテイングをしましょうというレターが送られてきた。
 もちろん、中学生がいってどうなるものでもないので参加はしなかった。

 果たしてその後どうなっただろうか。
 裁判沙汰になったため「ゴールドコースト・マラソン」という名称はしばらく使えなくなり、「ゴールドコースト・シテイ・マラソン」に変更された。
 最終的に娘が賞金を貰うことはなかった。






● 最後に汚点を残した「JALゴールドコースト マラソン」
 

 なをこのマラソン、現在は地元飛行場の国際空港への昇格を記念して、飛行場がメイン・ズポンサーとなり「ゴールドコースト・エアポート マラソン」として続いています。
 この昇格により、日本人にとっては地元からダイレクトに東京・大阪に飛べるため以前から較べると格段に便利になりました。


 話によると、雪ダルマは最近はスマートになったという。
 派遣社員で勤めているが、部屋を借りているため、家賃を稼ぐために、週末は別のところでアルバイトしているという。
 いわゆる「ワーキング・プア
 一丁30円のお豆腐で暮らす毎日だという。

 ビンボー、大いに結構。
 飽食の時代から「貧食の時代」へ。
 歴史は大きく変わろうとしている。
 これは、ちょっとオーバー。
 ただ、お金を稼げないだけ。

 となると雪ダルマ変じて「イタモメン」か。

 お雛様はいつもいつもふくよかな顔をしていらっしゃる。





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2009年2月24日火曜日

高松宮と阿川弘之(下)


● 1998/12


 この本「米内光政」にでてくる宮様がいる。
 海軍士官「高松宮」、昭和天皇の弟にあたる。
 昭和天皇には三人の弟がいる、秩父宮、高松宮、三笠宮。
 天皇を含め他の三人は陸軍士官である、高松宮のみ海軍士官である。

 高松宮妃と阿川弘之の対談がある。
 「This is 読売」平成十年一月号、二月号である。
 これが高松宮妃喜久子著「菊と葵のものがたり」に転載されている。
 「高松宮日記」が世にでる経緯が語られている。
 読み応えがあります。
 失礼ながら一部を適宜抜粋で載せさせていただきます。
 真意がゆがめられないように注意していますが、文庫本でも手にはいりますので、詳細は本文をお読みください。


妃殿下: 実は昨日、高松宮様のお日柄でした。
 ご命日のことです。
 昨日お参りしながら、私、「読売新聞に殺された」っていいつけてきたのよ。
 そうしたら、宮様が面白いねとおっしゃって、もうそろそろこちらにこないかとおっしゃるから「高松宮日記」が完成するまで参れません、そう申し上げてみました。
 だけど、なにしろ私、故人ですからね。まさに幽霊!
 (本誌注:先般、読売新聞の一部地域版で、妃殿下を「故人」と誤記しました。改めて、謹んでお詫びいたします)
阿川: 今、お話のような事情で、今日の妃殿下は幽霊としてご登場になります。
 お気持ちの整理をつけられたのは、何かきっかけがございましたか。
妃殿下: 読売新聞の渡辺社長が謝罪にいらして、その謝りっぷりがあんまりよかったから、この対談、お受けすることにしたんです。
 一時は本気でお断りするつもりだったのよ。
阿川: それではどうぞ、お心おきなく幽霊放談を‥‥。
 それにつけても早いもので、大井篤さん、豊田隈雄さん(両氏とも殿下の海軍大学校同期生で「高松宮日記」の編集委員)とご一緒に、お日記の原本を内々拝読するように仰せつかってから、もう四年になります。
 その前、殿下が亡くなられて確か四年目でしたか、御用掛がお蔵を整理していて日記の原本を偶然見付けられられたそうですが。
妃殿下: 私、こういう日記があること、全然存じませんでした。
 いつお書きになったかも全く知りません。
 書斎でお書きになっていらしたのなら、たまには私もそのお姿を拝見したでしょうにね、その記憶が一切ないんです。
阿川: 不思議ですね。
 しかし現実にこれだけの膨大なものが存在した。   
妃殿下: ただ、よく表の人(事務職員)に、これこれをしまっておけとか、あれを持ってこい、などとおっしゃっていらしたことは存じています。
 -------
 今思えば、日本が戦争に負けてから、宮様は煙突のあるところ(邸内の焼却場)へご自分で何か書類のようなう物をもって行っちゃ、焼いていらしたのです。
 それも一日や二日ではありません。
 何日も何日もです。
阿川: 全部、ご自分で。
妃殿下: はい、たくさんお焼きになっていらした。
 あるとき、大井さんに、あれは何を焼かれたのでしょうねとお聞きしたら、アメリカに見せたくないものでしょうとおっしゃっていました。
阿川: 見つかったお日記は、市販の分厚い日記帳で二十冊分でございましたね。
妃殿下: もうびっくりしちゃって‥‥。 
 これはえらいことになった。
 ともかく拝見しなければ、と、私は二度通読しましたの。
 -------
阿川: その後でございますね、靖国神社の宮司さんに意見をお求めになったのは。
妃殿下: この方が即座に、これは世に出してはいけません、火中なさるがいいでしょう、と言うのです。
 焼けということですね。--------
 それは一理あるかもしれないが、私の気持ちとしてはどうしても納得できない。
 もう一度誰かに相談しようと思い、宮様の海軍大学校時代、お友だちでいらした、大井篤、豊田隈雄、実松譲のお三方を呼んで食事を御一緒しながら相談しました。
 「いやあ、これは大変なものですな」
 と異口同音に驚いて、何かして下さるかと思ったら、御飯だけ食べて帰っておしまいになった。
 釈然としないまま、私は大井さんに狙いをつけて、もう一度相談したんです。
 ちょうどその時、大井さんは昭和天皇様の御事跡を編纂していらしたので、陛下から宮様に戴いたお手紙なんかもお見せしたら、大変に興奮なさって、お日記にも興味をもたれたようでした。
 その後、大井さんは豊田さんとご一緒に見え、一週に一遍ずつでしたかしら、お二人で丹念にお日記の閲読を始めて下さって‥‥‥。
 ---------
 大井さんが、これは大変な「国宝級の資料」だと言い出されたの。
 そして私に内緒で阿川先生にこの仕事を手伝わないかと、という手紙をお出しになったのよ。
阿川: あのお手紙は大変な長文でして、今も大事に保存しております。
 それに書いてあったと記憶しますが、妃殿下が、お二人のお年のことをご心配になっていらしていたとか。
妃殿下: 九十二歳です。
阿川: それで妃殿下が、もう少し若くて、海軍のことがある程度わかる作家か何かに手伝ってくれる人はいないだろうか、そうおっしゃったと。
 大井さんは、自分が考えるにそんなら君だ、といって私に手紙をくださったのです。
 いろいろ事情があって、大分考え込みましたけれど、結局、謹んでお受けいたします、ということで初めて妃殿下にお目にかかりました。
 あれは一種の採用試験だと思っております。 
妃殿下: あの時先生、汗ばかりかいていらしたわ。
阿川: そりゃ緊張しますもの‥‥。
 しかしまあ、何とか合格したらしく、大井さん、豊田さん、私と三人で、密かにお日記の読みにかかったのです。




 このようにして阿川弘之が高松宮日記の編集にかかわっていくのだが、もちろん、私は「高松宮日記」なるものを読んではいない。
 おそらく一般人が読んで面白いものではなく、学術的資料に分類されるものなのであろう。
 後ろにそのパンフレットを載せてあります。

 対談を続けます。




妃殿下: その段階でできれば出版したいと思っていました。
 殿下が皇族である以上は、宮内庁にも言っておかなければいけないと思って、大井さんと、もう一人、豊田さんのお二人に、宮内庁長官のところへいっていただいて、こちらの意向を伝えました。
 しかし、宮内庁は「やめて欲しい」と言っている、というのです。
 宮内庁というところは、そういうところなんですね。
 その後で、宮内庁次長が一部でも拝見したい、といってこられた。
 私は、ここが大切だと思うところに紙を挟んで、二十冊全部見て戴きました。
 ----は、初め冷静に読んでいらしたけど、だんだん顔が赤くなってきて、読み終えると
 「大変貴重なものだと思いますが、やはりお出しになるのはおやめ戴きたい」といわれた。
 そばに私と大井さん、阿川先生もいらしたが、大井さんが怒りましたよ。
 テーブルを叩いて怒られた。
阿川: 考えてみますと、歌や雅の道について書かれた親王文書ならほかにもいくらでもあるでしょうが、戦争とか政治とか、文化、社会一般に関して、親王殿下が27年間にわたって二十冊も書き残された日記は、日本の歴史にほとんど前例がないのではありませんか。
 それを燃やしてしてまったらどうかとか、発表しないほうがいいとかいうのは、大井さんにしてみれば、とんでもない話でしょう。
 「これだけの貴重な資料が発見されたのに、国民に見せてはいけない、出版してもいけないという国が、世界の自由主義圏のどこにあるか。あるなら宮内庁に教えてもらいたい」
 と、大井さんが食ってかかりましたね。
 次官も強い口調で
 「そんな簡単なものではありません」
 と反論していましたが、そばで私はハラハラでしたよ。
 その後、日を改めて、妃殿下が「宮内庁にはこれの出版を差し止める権限があるのですか」とお聞きになった。
 「それはありません」という、宮内庁の返事で、
 「それなら私、出すわよ」とおっしゃって。
妃殿下: そう。宮内庁を押し切ったのです。
阿川: 週刊誌などで変に騒がれたりしたら困るので、作業は秘密裏に進めなければならない。
 それにはまず編集委員長を決めるのが先決だろう。
 では誰がいいか、どんな人なら関係者がみな納得するか、よりより協議を重ねて、結局、細川護貞さんにに委員代表をお引き受け戴くことになった。
  細川さんは、学習院時代からの宮様スキー仲間で、宮様に親しく「サダちゃんサダちゃん」と呼ばれて、戦争末期に宮様のプライベートな機密情報係として、最 もおそば近くにいらした方でもありますし、その上、妃殿下のお父上様(徳川慶久公)と細川さんのお父上(細川護立公)がね‥‥。 
妃殿下: 大変な仲良しだったのよ。
阿川: 慶久候と護立候とは、学習院高等科の同級生なんです。
 ついでに申し上げれば、私の師匠に当たる志賀直哉先生も同級生で、一緒に英語劇なんかやった仲間です。
妃殿下: みんな親しいお友だちだったのよ。
 --------
阿川: 話が少し飛んで、戦争末期のことになりますけど、細川護貞さんの名前が、頻繁に出てきます。
 ただし「細川○○時に来る」と、ごく簡単な記述でなんです。
 それ以上のことは何も書いてない。
 細川さんは、海軍と宮邸と重臣たちとの間を往復して、秘密の情報を宮様にお伝えしているんですが、お日記の上では、素っ気なく「来る」だけなんですね。
 実際は東條英機首相暗殺の相談までなさっているんです。
 妃殿下には、そういう緊迫したやりとり、やはりお伏せになってたんでしょうか。
妃殿下: 全然覚えていません。
阿川: そのあたりのことは「高松宮日記」では分からないわけですから、興味のある読者には中公文庫の「細川日記」を読んでもらうことにいたしましょう。
 その中にもありますが、細川さんは、中大兄皇子が蘇我入鹿を誅した故事など持ち出して、東條を刺すのは私がやりますと。
 千三百年前の話でも、細川さんの口から出ると迫力がありますから。
妃殿下: ほんとうにそうね。
阿川: 結局は、御熟慮の末、陛下の大命を拝して首相になった者を自分たちの手で殺すというのはやはりよくない、やめようとおっしゃって、やめることに決まって細川さんは御殿を退出するんですが、品川駅の近くまできたら、細川の殿様、足がぶるぶる震え出したって‥‥。
 この話は護貞さんから直接伺いました。
 -------


 なを、大井氏と豊田氏は老齢のため、編集途中で亡くなられる。
 よって主たる編集は阿川弘之によっておこなわれることになる。


 運よくもこの本に差し込まれていたその「高松宮日記」出版のパンフレットがありました。
 コピーして載せておきます。







 ちなみに、「菊と葵のものがたり」の中でも米内光政が出てくる。
 「イギリス皇室の思い出」の中で、途中上海に寄ったときの部分に出てくる。

 上海には、十五年後日本敗戦降伏の際、重大な役割を果たす外交官の重光葵さんと、海軍の米内光政さんが在勤しておられた。
 黄浦江の濁流を溯って上海に着いたのは4月の29日、天長節の佳き日であった。
 私たちは上陸して総領事館を訪れ、重光代理公使はじめ邦人たちとともに、祝賀会に臨んだ。
 つづいて在留外交団を招いてのリセプションが催され、それを終えてから米内さんが司令官をしている第一遣外艦隊の旗艦「平戸」へ行って司令官主催の午餐会に出席した。
 米内さんはなかなか風格のある提督だったが、当時未だ少将で、この人が将来、滅亡の淵から国を救う役を果たされるなどと、むろん私は想像することすら出来なかった。




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2009年2月23日月曜日

高松宮と阿川弘之(上)


★ 昭和54年4月 第九刷


 昨年のジャパン・デーで購入した本。
 たくさんのくくられた本の束が売りに出ていた。
 だいたい4冊ほどが一束で4ドル(400円)の値段。
 一冊あたり100円見当。
 その中にあったのだが、なぜか上巻と下巻が別の束にくくられていた。
 どうなるかわからないが、とりあえず出店の方に注文を出してみた。
 もし、できないといわれたら二束一緒に購入するつもりでいた。
 「そうですね、読めないですよね」
と言ってくれて、束をばらして一緒にしてくれた。
 ちょっと手間をかけさせてしまった。

 「あとがき」から抜粋で。


 昭和52年7月から昭和53年8月までに「週刊読売」に連載した。
 最初同誌編集部より相談かたがたの依頼は、誰か日本海軍提督の伝記を書いてみないかとのことであった。
 十年前に「山本五十六」を出した自分がもう一度興味をもって取り組めそうな提督があるとすれば、結局、米内さんということになるでしょうが、米内伝はすでに幾つも出ていますからと、私は答えた。
 短いものながら戦後早く小泉信三氏の「米内光政」と題するすぐれた文章があり、それを収めて緒方竹虎氏の「一軍人の生涯」がある。
 かって米内海相の秘書官をつとめた実松譲大佐の大作「米内光政(新版)」は比較的近著で、現在書店の店頭に並んでいる。
 私があらためて筆を執るのはいかにも屋上屋の感じがするし、とりわけ実松さんに対して失礼な気がする。
 --------
 小金井に住む74歳の元海軍大佐は、道が分かりにくかろうと、町の辻に立って待っていてくださった。
 家へ入って私の来意を聞くなり、
 「そりゃ君、米内さんについてなら書くこと未だいくらだってあるよ」
と言い出した。
 「お書きなさい、お書きなさい。僕のあの本の中に書かなかった話があるからそれも話します。ノート持って来ましたか。忘れるといかん。メモをおとりなさい」
 当の実松氏からこういうかたちですすめ励まされようとは思っていなかった。
 私は一種の戸惑いを覚えながら、そんなに言って下さるならやってみますかネ、先人の記し残した落穂を拾うつもりで米内光政夜話のようなものでも書きましょうかと言って、実松家を辞去した。

 米内評伝(「山本五十六と米内光政」)を書いた今一人の海軍軍人高木惣吉少将からは、自分のどの著作のどの部分でも自由にお使いくださいという鄭重な手紙を頂戴した。

 米内大将の嗣子米内剛政氏は
 「色々書いてくださる方があるんだし、お書きになるのは御自由だが、おやじのことなんか今の若い人はもう知らないんじゃないですか。名前の読み方だって
コメウチさんか、せいぜいヨネウチさんですからね」
と、笑っていた。
 のちに雑誌新連載の広告を見て、
 「
ベイナイコウセイ(米内光政)ってなんですか。アメリカの政治のことでも書くんですか」と私のところに聞きに来た高校生もあった。

 あのいくさで日本本土が戦場にならず、国が分割もされず、私どもが今こうして安穏に暮らしていられるのに米内光政という一海軍軍人がどのような役割を果たしたか、きれいに忘れ去ってしまっていいのか知らんという思いが執筆中度々胸を去来したのも亦事実である。
 落穂拾いのつもりで「回想米内光政」と題して書き始めたが、だんだん正面切った米内伝のようになって来た。
 完結後「回想」はとった方がよくないかという意見が出、その方がすっきりするように自分でも思うものの、これだと実松譲氏の著作と同じ標題になる。
 再び実松氏に手紙で伺いを立てた。
 折り返し、
 「どうぞ、どうぞ。そんなことちっとも構いません」
という返事が届き、それで連載中の「回想」の二字は削ることになった。
 以上、執筆の動機と題名決定の経緯のみしるして、ここにお名前を挙げなかったすべての関係者への謝辞に代えたいと思う。

 昭和五十三年十一月           阿川弘之


 ところで、読み終わってみると「よくわからない」というのが感想。
 以前に同じ著者の「暗い波濤」を読んだことがあるが、あれはのめりこんで読んだ。
 でもこれは、焦点がつかめない。
 イライラしてしまう。
 ちょびっと読んではおき、チョビット読んではおいている。

 似通った例では司馬遼太郎の「翔ぶが如く」がある。
 これが司馬遼の作品かとおもうほどにひどく読むのがつらかった。
 ただ、ガマンガマンで最後の巻までたどりついたことを記憶している。

 あれは異常といえるほどであったが、これはもう少しトントンといって欲しかったと思う。
 この本の後ろに「阿川弘之自選集全十巻」が載っている。
 その中には山本五十六、暗い波濤、軍艦長門の生涯が乗っているが米内光政はない。

 戦争とはわけがわからぬものであるが、一人の人物に焦点をあわせているかぎり、その部分だけでもわけが分かっていないと、その人物からみる戦争がつかまえられなくなる。
 わけが分からないが二乗で増幅されているような、ヘンな気分になってくる。

 やっと動き始めるのは下巻の後半から、敗戦へ向けてからである。
 それでも読み終えて、やっぱりわからい。
 米内光政とは何者であったのか、著者じたいも掴んでいないのではないかと思ったほどである。
 ただエピソードを羅列したにすぎないように思える。
 本題が「回想 米内光政」だというから、それでもよかったのかもしれないが。
 「米内光政」で読むとすべてが曖昧模糊になってくる。

 そういえば、終わりの方に面白い一話が載っている。

 業を煮やしたウエッブ裁判長(東京裁判)が、「それでは返事にならぬ」と腹を立てて
 「こんなアホな総理大臣、見たことがない」
 と、罵ったが、米内はカエルのツラに水のような顔をしていた。
 ウエッブとは正反対の印象を受けtのは、東京裁判の主席検事ジョセフ・キーナンであった。

 あれは米内が畑をかばったのだ。
 日本側の証人を何百人も見たが、あんな人はいない。
 国際軍事法廷で普通の人間に「あれだけの芝居」が出来るものではない

 と、大いに興味を示し、この年12月一時帰国の前「米内提督へ」と自筆ペン書きの丁寧な招待状を送り。一夕宿舎の三井ハウスで非公式のデイナーを共にしてアメリカへ去った。


 ということは、阿川弘之ですら人物像をつかめていないほどのヌーボーだったのかもしれない。


 読者の読後感想をインターネットから拾ってみた。
 「買ったよ!米内光政(新潮文庫)レビュー」というサイトをコピーします。
 長いですので興味がないなら読み飛ばしてください。



● 文庫版の表紙


★ 「買ったよ!米内光政(新潮文庫)レビュー
http://4101110069.kattayo.com/

最後の海相

司 馬遼太郎氏のような主人公を一から追ったものとは違い、最初から他の人からの伝聞や 資料を元にした推察などで進められ、歴史に無知な者としては、最初誰が誰やら混乱をきたした。ただそれでも読み進めるにしたがって、だんだん米内さんに引 き付けられている自分に気付く。 そして、彼に接した人物たちに、まだ無名であったにもかかわらず「海軍は米内光政ではないか」と 言わせるだけの彼の「何か違うな」と思わせるものは、彼らに語ってもらうのが一番わかりやすく、 説得力のあるものになったのではないかと思う。 また、阿川氏自身が米内があの時勢に異常なまでに冷静であったように、 客観的に米内を見つめた結果なのかもしれない。 写真を調べると、整った顔立ちながら長身で、この人がじっと黙って座っていたらかなり気になるなと思った。

膨大な資料と証言

元 海軍主計大尉である阿川弘之氏の、海軍提督三部作の第2冊。先に発表された「山本五十六」同様、執筆当時存命だっ た井上成美元海軍中将に取材を行っているため、半分井上の伝記のようにもなっている。戦争へと進む時流に全力で抗するも、結局は止められず、最初の一手を 自ら打たねばならなかった山本の悲哀と悲惨を描いた前書と違い、この作品は奇妙な明るさがある。それはひとえに米内の人柄の故だろう。

自分もかくありたい。

戦 前の宰相、米内光政の伝記。 当初は無口で鈍重といわれ、首相時代についたあだ名は「金魚大臣」(=見た目が立派なだけで役に立たない)。 しかし首相を退任した後、いざ日本の敗戦が濃厚になったとき、海軍大臣として終戦に向けて尽力した。 米内はとても器の大きな人だったといわれており、それは「人の使い方」について語った次の言葉からも伺える。 ------------------------------------------- 人にはそれぞれの能力があるからね。 物サシでいうと横幅が広いのもあるし、 縦に長いのもある。 物サシの具合をよく見て、その限度内で働いている間は、 僕はほったらかしとくよ。 ただ、能力の限界を越えて何かしそうになったら、 気をつけてやらなくちゃいかん。 その注意をしそこなって部下が間違いを起した場合は、 注意を怠った方が悪いんだから、 こちらで責任を取らなくちゃあね。 -------------------------------------------

阿川さんは「トリオ」で考えていたのであろう。

  阿川さんが、数ある帝国海軍の提督の中で米内〜山本〜井上を取り上げたのは、この三人を帝国海軍の最後の良心、期待の星として捉えていたと思われる。  したがって、別々に書かれているが、この三人が、太平洋戦争の海戦に反対し続け、心ならずも、米内さんは政治に翻弄され、山本さんは、最も戦いたくな かったアメリカに先頭切って戦わざるを得ず、井上さんは、目立たずに海軍兵学校超で終戦を迎える。  この本の大半は他のレビュワーも評しているように井上成美物語ではないかとすら思えるが、三冊(山本五十六は上下巻だが)まとめて読めば、阿川さんの真 意が分かるのではあるまいか。  このような人たちが正当に発言できず、その声が反映されなかったことは、日本帝国海軍の悲劇であろう。  

無私のすさまじさ

  米内という人は作中で何度も語られるが、寡黙でその心中を読み取りにくい人物であったという。こういう人を小説の 題材として描くにはどうしても周囲で接した人々の証言が重要な鍵となってくる。著者はそれが為に多くの米内を知る人の証言・伝聞を調べ上げ、彼の事績をつ むいでゆく手法をとった。  前半中盤までそのエピソードや人の証言、文献の引用が多いため、読むに少し辟易する部分もある。しかし、後半、米内が小磯国昭内閣海相として政界に復 帰、終戦に尽力する過程から物語に哀愁が帯び始める。米内のよい部分もマイナスとなるエピソードも、総合的に書いて彼の人となりを浮かび上がらせるという 構成だが、最終的には成功しているといえる。阿川氏の小説手法は、題材とする人間の周囲を克明に描く事で、主人公の確かな手触り、実像を浮かび上がらせよ うとするものなのである。  日本最後の海軍大臣として、血圧250を越える身体で終戦の為に闘った米内。寡黙で断片的な発言が多かっただけに、その評価は分かれるところである。作 中でもその評価の二分した様が何度も描かれる。しかし米内自身の言葉に表れずとも、その意志の明確なる様を、周囲の人々の動きや言葉によってこの小説は強 く描きあげている。小説の題材になりにくい無口な主人公を「無私」ということを鍵に巧みに描きあげた本書は名著である。  大勢が誤った方向に進んでゆくとき、いかに己の考えを偏らせないで一定に貫くという事が難しいか、よくよく思い馳せてみれば米内のすさまじさが解る気が する。気力の充実した若いうちに読むことをおすすめしたい本である。

井上成美を書きたかったのか?

  井上成美で始まり、井上成美で終わります。200pまでは米内光政が主人公でなくてもいっこうにかまわない進め方 です。 基本的に海軍と天皇が善、陸軍が悪のイメージで話は進みます。特に、山本・井上・米内は殆ど善、だんだんいらいらしてきます。これは著者のエピ ソードを繋いでストーリを進めるという手法が私には合わなかったせいもあります。感情移入しにくかったです。 読み終わって、元々戦争において陸軍に悪い イメージを持っていたのですが。この本を読んで、大東亜戦争に負けたのは海軍が大きな要因で、戦争の実態を誤魔化していたのは海軍が大きな原因をしめてい たのではないかと思いました。

沈黙の提督

  山本五十六、井上成美と並ぶ阿川氏の提 督三部作の一つ。国を挙げての熱狂の中、命を懸けて三国同盟に反対し、日 本を終戦に導いた沈黙の提督米内光政。私観を一切廃し、米内の半生が史実を元に淡々と描かれており、数々のエピソードを通じて、その苦悩、その人柄を窺い 知ることができる。狂騒の時代に、軍政家としてでなく人としてよくぞ冷静なる判断を下してくれた、と読後に一服の清涼感さえ覚える一書である。


● 単行本カバー表紙(上下2巻)

● 巻末 阿川弘之自選作品



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2009年2月20日金曜日

美の科学:美しいものは生き残る


● 美の科学:美しいものは生き残る

 

 1年半くらい前のことだと思う。
 新しい日本食料品店のGマートがオープンした。
 そこに、この本があった。
 手にしてパラパラとページをめくったが購入はしなかった。
 
「なぜ美人ばかりが得をするのか」この題名が気にいらなかったのである。
 2週間ほどして行ったら、まだ売れずにあった。
 ならばということで買った。
 $1.50、日本円で150円ほど。
 買ったはいいがそのまま棚に置かれたままであった。

 今回、はじめて読んでみた。
 面白い。
 名前からして、ミーハーかウラっぽいかのどちらかだろうと思っていたが、ちゃんとした専門学術研究書であった。


● 2001/02


● 原本 1999
 SURVIVAL OF THE PRETTIEST
   The Science of Beauty


 読み終わってから、インターネットを検索した。
 小説類とはちがって、しっかりとした理論的意見が数多く公開されていた。
 そのいくつかをを抜粋で載せておきます。
 興味がなければ読み飛ばしてください。


★ 関心空間
http://www.kanshin.com/keyword/927948

 原題は「美しいものは生き残る。美の科学」
 著者(ハーヴァード大)も訳者も女性で、その分、シビアな客観性。
 健康・強さ・生殖能力の高さ、健康な子供をつくるという生物として求められる能力、身の回りの生活の中でも、映画・TVをみても、ビジュアルは別格。
 美とはなにかという話はあるが、生後3ヶ月の赤ちゃんでも美女がわかるというすごさ。

 進化の過程で生存のために選択されてきた感覚としての美を解説した書。
 たっぷりいろいろな事例を紹介していている、洋の東西を問わず美は追求されるし、見た目で人を判断するのは人のつね、人を見て人を判断するのはもともと人に備わった能力と写真家の橋口譲二氏も述べるところ、人相は人を語るのは、うなずけます。
人は美しいものが好きなんです、美を求めるサガ。可愛いという言葉も同じ。

 認知科学の最新研究と、進化心理学の知見をもとに、古代の美の定義から、男女の性戦略、育児の秘密、美容整形事情にいたるまで、広範なエピソードをまじえて美の本質に迫り、美しさの謎を解く画期的な本。

---目次---
1章: なにが美しさをきめるのか
 美を数値であらわそうとした人たち、悪魔の美しさと神の美しさ、ほか
2章 :美人は赤ん坊にでもわかる
 本能か学習か、生まれつきの不平等、セックスにおける美の効果 ほか
3章: 男は写真で、女は履歴で相手を選ぶ
 美にひそむ進化の働き、美人はしあわせか ほか
4章 :人はなぜ髪と肌にこだわるのか
 隠すか・見せるか、ブロンド美人は天使か悪女か ほか
5章 :顔は多くを物語る
 風土と顔の造作の関係、美しさを感知する脳の働き ほか
6章 :サイズが肝心
 くびれたウエストはなぜ好まれるのか、やせた体・太った体 ほか
7章 :ファッションの誘惑
 おしゃべりな服、スーパーモデルとブランドものの体 ほか
8章 :声、しぐさ、匂い、そしてフェロモン
 美の体験は思考をとめる、美を生みだすもの  ほか




★ 古本屋の殴り書き
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20080519/p1

 「まともなコラムニストが読めば、死ぬまでネタには困らないだろう」――と思わせるほど、てんこ盛りの内容だ。
 タイトルはやや軽薄だが、内容は“濃厚なチョコレートケーキ”にも似ていて、喉の渇きを覚えるほどだ。
 著者は心理学者だが、守備範囲の広さ、興味の多様さ、データの豊富さに圧倒される。
 アメリカ人の著作は、プラグマテイズムとマーケテイングが根付いていることを窺わせるものが多い。


 人びとは美の名のもとに極端なことにも走る。
 美しさのためなら投資を惜しまず、危険をものともしない。
 まるで命がかかっているかのようだ。
 ブラジルでは、兵士の数よりエイヴォン・レディ(エイヴォン化粧品の女性訪問販売員)のほうが多い。
 アメリカでは教育や福祉以上に、美容にお金がつぎこまれる。
 莫大な量の化粧品――1分あたり口紅が1484本、スキンケア製品2055個――が、売られている。アフリカのカラハリ砂漠のブッシュマンは、旱魃(かんばつ)のときでも動物の脂肪を塗って肌をうるおわせる。
 フランスでは1715年に、貴族が神にふりかけるために小麦粉を使ったおかげで食糧難になり、暴動が起きた。
 美しく飾るための小麦粉の備蓄は、フランス革命でようやく終わりを告げたのだった。
」 
 最初っから最後までこんな調子だ。
 学術的な本なんだが、「美の博物館」といった趣きがある。
 雑学本として読むことも十分可能だ。
 それでいて文章が洗練されているんだから凄い。

 手っ取り早く結論を言ってしまうが、「美人が得をする」のは遺伝子の恵みであり、進化上の勝利のなせる業(わざ)だった。

 美は普遍的的な人間の経験の一部であり、喜びを誘い、注意を引きつけ、種の保存を確実にするための行動を促すもの、ということだ。 

 美にたいする人間の敏感さは本性であり、言い換えれば、自然の選択がつくりあげた脳回路の作用なのだ。

 私たちがなめらかな肌、ゆたかで艶(つや)のある髪、くびれた腰、左右対称の体を好ましく感じるのは、進化の過程の中で、これらの特徴に目をとめ、そうした体の持ち主を配偶者に選ぶほうが子孫を残す確立が高かったからだ。

 私たちはその子孫である。

 科学的アプローチをしているため、結構えげつないことも書いている。
 例えば、元気で容姿が可愛い赤ちゃんほど親に可愛がられる傾向が顕著だという。
 つまり、見てくれのよくない子に対しては本能的に「劣った遺伝情報」と判断していることになる。
 更に、家庭内で一人の子供が虐待される場合、それは父親と似てない子供である確率が高い。

 ビックリしたのだが、生後間もない赤ん坊でも美人は判るらしい。
 実験をすると見つめる時間がが長くなるそうだ。
 しかも人種に関わりなく。
 するってえと、やはり美は文化ではなく本能ということになる。
 また背の高さがが、就職や出世に影響するというデータも紹介されている。
 読んでいると、世間が差別によって形成されていることを痛感する。
 そう、「美は生まれながらの差別」なのだ。
 ただし、それは飽くまでも「外見」の話だ。
 しかも、その価値は異性に対して力を発揮するものだ。
 当然、「美人ではあるが馬鹿」といったタイプや、「顔はキレイだが本性は女狐(めぎつね)」みたいな者もいる。
 男性であれば、結婚詐欺師など。


 人びとは暗黙のうちに、美は善でもあるはずだと仮定している。
 そのほうが美しさに惹かれるときに気持ちがよく、正しい世界に感じられる。
 だが、それでは人間の本性にある矛盾や意外性は否定されてしまう。
 心理学者ロジャー・ブラウンは書いている。
 「なぜ、たとえばリヒャルト・ワーグナーの謎に関する本が2万2000種類も書けるのか。
  その謎とは、崇高な音楽(『パルジファル』)や高貴でロマンチックなな音楽(『ローエングリン』)、おだやかな上質のユーモアにあふれる音楽(『マイス タージンガー』)を書けた男が、なぜ熱心な反ユダヤ主義者で、誠実な友人の妻(コジマ・フォン・ビューロー)を誘惑し、嘘つき、ペテン師、策士、極端な自 己中心主義者、遊蕩(ゆうとう)者でもあったかということだ。
 だが、それがいったい意外なことだろうか。
 本当の謎は、経験を積み、人格や才能にはさまざまな矛盾がまじりあうことを承知しているはずの人びとが、人格は
道徳的に一貫しているべきだと信じている、あるいは信じるふりをしていることだ。






★ Ania雑記
http://gabbiano.exblog.jp/7985826/

 若者の顔をみていたら、彼らの顔はひところより男女の差がなくなっているなあと感じる。
 男の子の顔がやさしげだ。女性に近づいているような感じ。
 それは変化、遺伝子戦略となり進化の方向になるのだろうか。

 で、数年前に購入した本を思い出しました。
 脳、認知科学の研究者で心理学博士ナンシー・エトコフ著の本書。
 原題は「SURVIVAL OF THE PRETTIEST:The Sciece of Beauty」。
 話題それますが、英語が超苦手な私でも読んだあとで、この邦題に「なぜ美人ばかりが得をするのか」は違うんじゃないのか?

 本書の紹介文が

 認知科学の最新研究と、進化心理学の知見をもとに、古代の美の定義から、男女の性戦略、育児の秘密、美容整形事情にいたるまで、広範なエピソードをまじえて美の本質に迫り、美しさの謎を解く

 なら、生存、戦略、なんかの言葉を使った方が内容をよくあらわしていると思う。
 邦題のほうが手に取る人も多いのかもしれませんが。

 内容は面白いです。
 ですが本としては若干中途半端な印象です。
 一般向けの解説文なのか、学術書なのか方向性がいまいち明確じゃない。
 美に関する引用論文のデパートにちょっとしたエピソードが加えてある感じ(まあ深く知りたければ引用論文を読めばいいのだけれど。)
 これは論文じゃなくて一冊の本にまとめたってことは、著者は何かを伝えたかったに違いないと思うのだけれど、はたしてそれは何なのだろうか~と、はたと思まいました。
 各章は興味深いく面白い内容です。

 で、最初戻って、顔のつくりにおける「美」とは「平均」という話。
 研究調査結果によれば、文化圏をまたがっての「美」とはシンメトリーであり平均である。
 つまりは、私たちはシンメトリーであり平均であることを「美」と感じているのか。

 シンメトリーは、生き物としての生物学的、遺伝的な面から説明がつき抵抗力・生存能力・生殖能力が高いということのシグナルであり、それが総合的な最適性の目安となる。
 平均化された顔を美しいと感じる傾向は、複数の文化圏をまたがっても意見の一致がみられ、同一文化圏だとより強く一致する調査結果とのこと。
 平均は、人間の 心の中にある「まざりあった記憶が作り出す典型的イメージ」の複製であり、「複数の人間の顔を平均すると個人個人の顔の欠点が取り除かれる」。
 そういえば年末にオダギリジョーと結婚を発表した香椎由宇ちゃんは100万人に一人という左右対称性を持つ顔なんだそうな。

 さらに。
 女性の場合は平均より、より女らしい特徴を強調したほうがより魅力的であるという調査結果に対し、一部の研究では男性の場合はわずかに女性化された顔のほうが魅力を感じる結果もあるらしいのです。
 なるほど~。そんな感じがしますです。
 タッキーやら岡田君やらHey!Say!JUMPの山田君とかは、女の子のように優しげな顔ですもん!
 ヨンさまなんか非難浴びるのを覚悟で言えば、おばさま顔だと思うもの。

 しかし。
 シ ンメトリーで平均に近い顔は生存能力の高い配偶者の目印となるけれど、魅力的な異性は必ずしも誠実ではないわけですよ。
 それは別物。
 だって逆に美しさを武 器に強い生殖能力を持って今まで生きのびてきたわけだから、いっぱい子孫を残そうとしそうですよ。
 一緒に生きていくパートナーとしてはいかがなものか、と 思うわけです。
 まあ、美しい顔立ちの人ってそんなにたくさんいるわけじゃないから、美以外の他の能力に長ける戦略を持つ遺伝子君も、がんばっているわけですね。
 だからバランスする。

 著者は最後に、美人ではなかったけれど抑制と知識と誇りと力をもつ作家のジョージ・エリオットと恋人たちのエピソードを例にあげ、
  「美は訪れを待つものではない。美は生み出すものだ。」
と締めくくっています。

 しかしながら「生み出された美」を本当に理解する、される ためにはかなりの知性が必要ではないかと思われるのです。
 目一杯前向きに考えると「美」というより「魅力的」になるためには、やはり日々自分を磨くことが大事なんですね!
 でも、目的が平均からの差異を埋めるためだけじゃなく、より美しいパートナーを求めるためだけでなく、いや、そうなってしまったとしても(うははは)、「美を生み出す」こと自体に向かう、「魅力的」化はそのおまけ、のほうが楽しいもんね!




★ AmlethMachina's Headdoverheels
http://amleth.blog119.fc2.com/blog-entry-129.html

 生き延びるものが一番かわいいーなぜ美人ばかりが得をするのかー
 ナンシー・エトコフ著「なぜ美人ばかりが得をするのか」(草思社)の話である。

 はっ きり言ってこの邦題はヒドすぎる。
 原題は「適者生存(Survivalof the fittest)」をモジって「Survival of the prettiest」。
 「美しいものは生き残る」あるいは「適美生存」、はっきり「生き延びるものが一番かわいい」とした方がいいと思う。

 いわゆる通俗的な脳本とは一線を画す非常に学術的な内容であり、進化心理学、行動心理学的なコンテクストから美人(美男)であるということがどういうことなのかから始まり社会学的なコンテクストにまで展開する。

 こ の中では「生存に有利な形質を選択する行為が美しい、魅力的だと感じることの本質なのだ」という種の保存に忠実な身も蓋もない理論が展開される。
 一切観念 的な美については議論されることはない、潔いほど。
 ここでは赤ちゃんでさえ無制限に可愛いとは定義されない。
 生き残る可能性の高い赤ちゃんを可愛いとする 心理的メカニズムが展開される。

 「美人だから得をする」ということではなく「生き残る可能性の高い特徴を魅力的、美しいと感じるメカニズ ム」についての言及なのだ。
 だから、「生物学的な生存競争に直接さらされることのない現在、社会的コンテクストにおいて如何なる要素が生存に有利だと判断 されるのか」ということが後半で展開されていく。
 この著作の前半では生物学的美が敢然として存在するかのように見える。
 しかし、このメカニズムを字義通り 解釈すると全ての環境に適応可能な遺伝形質が存在しないように観念的な理想美は否定される。
 単に社会を含む生存環境に最も適応する形質や象徴を魅力的だと 感じるという以上の意味はない。
 
軽く読めるし、馬鹿バラエティ番組、何十本分のネタが詰まっており、読む人の抽斗に応じていくらでも展開 できそうな内容だと思う。
 またタンク・ガールやらココ・シャネル、アレクサンダー・マックイーン、ガリアーノ、アントワープ6への言及ぶりがツボを押さえ ていて個人的にはポイント高いぞ。





★ 得にならない美をめぐる考察
http://www006.upp.so-net.ne.jp/ott/bookreview15.htm

 どういう風に紹介したらいいか、ちょっと迷う本だ。「お手軽な似非科学本」とか「チープなダーウィニズムの臭いがする俗悪な読み物」とでも言ってしまえば簡単に通りそうだが、それだけではちょっともったないな気もするのだ。
  ちょっと手にとるのがためらわれるような表紙をめくってみよう。

 第一章で著者はこう言う。「多くの知識人は美はとるに足りないものだと指摘する」。普通そ ういう認識はなかなか共有できないと思うのだが、そんな「知識人」の代表として挙げられているのが、アメリカのフェミニスト、ナオミ・ウルフの著作『美の陰謀』である。なんとまあ。やはりアメリカのフェミニズムはそれだけ力があるということか?
 『美の陰謀』はなかなか面白い本だ。

  この本は美がこの社会のなかでいかに機能しているか、を説いた本。「男性社会」は女性の美を礼賛することで、女性の欲 望をその中に限定し、男性が女性を支配しているという社会のあり方を隠蔽し、そのシステムを維持する。現代において、美は金儲けの手段であり、この社会の あり方を存続させるための強力な切り札である、というような。美しくなろうとして化粧やダイエットに投資しつづける女性は、男性に搾取されている、という のだ。
  確かに、現代のアメリカを代表するフェミニストが書いただけあって、素晴らしく威勢がよくて、やや乱暴な書き方ともいえる。読んでいると、あたかもどこか の男性たちが共謀して美という概念を作り出したかのような錯覚さえ、おぼえる。もちろん、ちょっと筆がすべってしまったとしても、ナオミ・ウルフはそんな ことを言いたいわけではない。
  でも、そんな錯覚がありえてしまうくらい、私たちは「美とは何か(この場合あくまでも人間の)」についてはっきりと理解していないし、そのことを正面から 考えないことに慣れきってしまっている。この本の著者はそこに苛立っていたのであろう。じゃあ、科学的に「美」をとらえるとしたら、それは何なのか。簡単 にいうと、この本の狙いはそこにある。
  よく考えてみると、確かに人の美しさには、タブーと言えるような側面がある。女性誌などに載っている有名女優やモデルのインタビューなどの取り上げ方ひと つを見ても、彼女の美しさをあくまでもモノとして、あるいは生物学的なものとして限定することはありえない。書き手は、意識してか、あるいは無意識のうち にか、その美しさをその人間の内面的なものの現れとして描こうとする。あるいは、美しさはときに服装や化粧といったものの効果にすり替えられる。人の美し さはただ見れば自明のことであるから、であろうか。それにしても、なんだかちょっと気持ち悪い。
 著者は同じような事例として、相手が美人であるときとそうでないときの人々の対応の違いに触れている。つまり、人は外見の美しさをたびたび、別の性質(たとえば頭のよさ、性格のよさ)と混同してしまうということだ。

  そんなわけで、著者は人間の美しさについて、それをひたすら生物学的な特徴として考察する。シンメトリー、皮膚の肌理、肉づきのよさ、などなど。それは若 さとか、健康とか、生物としての強さとか、そういう言葉に置き換えられるものだ。人間は先天的にこの「美しさ」というものを感知する能力をもっている、と いうことだ。
  美しさは文化的な概念だとか、美しさは見る側のなかに存在するとか、そういういわば「文系的な」美のとらえ方と真っ向から対峙しようとする。それはそれで 結構いさぎよい態度なのではないか、と僕はちょっと感心した。細かい議論はチープだし、論証の過程などはかなり杜撰ではあるけれども、先にふれた「美をめ ぐるタブー」に挑戦する試みとしては、評価できるのはないか。
「心 がけが容姿に現れる」とか「自分を磨く」「美しさを手に入れる」といった常套句はまさにこの生物学的な「美しさ」を隠蔽するための言葉といっていい。そう 考えると、人の美しさをあくまでも生物学的な特徴と考えることは、フェミニストであるナオミ・ウルフの主張とも重なってくるのではないか? なんだかおか しなことになってしまった。

「美」はあまりにも多くの意味を引き受けた言葉だ。

おまけに、何を美しいと思うかは、プライヴァシーの領域というか、神秘的な領域として守られている。だからこそ「陰謀」が成り立つということは確かだ。
  もちろん、ナオミ・ウルフをはじめフェミニストたちがこの本を受け入れる見込みはまったくない。なんといっても著者は、男が女を容姿で選ぶのは生物の行動 として根拠がある、などと言っているのだから。その結果、世の女性たちが血眼になって男性を惹きつけるために化粧やらエステやらに投資するのは当然とい う、結論になる(本書)。





★ まずは読め。話はそれからだ。
http://skywriterbook.blog68.fc2.com/blog-entry-310.html

 誰もが美人を好きでありながら、美人だから許されることがあるんだとは 言えないのが社会通念だ。
 しかし、我々が生きるリアルな世界はヒトの評価が外見で左右されるべきではないという理想を拒絶する。

 本書で 指摘されているのは実に驚くべきほどの、美人と美人以外との間にある壁である。
 命の瀬戸際にあって、美人は不美人より助けを与えられる可能性が高い。
 当然 のことながらセックスや結婚の機会は美人が圧倒的に多い。
 男で言えば、美男は他の人より給料が高く、出世する傾向にある。
 たとえ能力が同じだったとして も。

 どれほど見識ある人々が他人を外見で判断してはいけないと述べたとしても、悲しいほどに外見に囚われるのが人類なのだ。
 はっきり 言って、これらの事実を前にすると「外見で判断せず中身で判断して欲しい」などと言いながら髪を染めたり相応しい服装を取らないなどの“反抗的と思われる ”行動をとるのは大間違いであるということになる。

 美人であるかどうかは悲しくなるほどに我々の生活を左右し、操るものなのだ。
 なにせ、赤ん坊ですら美人と不美人を判定して美人を長く見つめるという。
 ここまでくると、美人好きは遺伝子に組み込まれたシステムで、無視するわけにはいかないということが分かるだろう。

  本書はそんなある意味で救い難い命題がどれほど威力を持っているのかを紹介している。
 美しさとはどのようなものなのか、美しい人々はどのような得をしてい るのか、美人であることと幸せであることはどう結びつくのか。
 どうしようもなく自分の外見に囚われずにはいられない性を持つ我々には身につまされる話が多 い。
 そして、同時に自分たちの意識しない本性に気づくきっかけにもなる。

 残念なことに見た目ほど重要なファクターはない、と言っても過 言ではないのがこの世の中で、それはそれで諦めるしかないことなのだろう。
 類人猿が人類へとつながる進化を遂げる過程の中で、美人を選ぶことの利点が生物 学的に組み込まれてしまっているのであれば、その事実から目をそらしても仕方が無い。
 中身が勝負だなどという前に、まずは現実から見つめるという意味で大 変に役に立つ本だろう。

 顔の造形だけではなく、ファッションやスタイルなどの外見、フェロモンなどの嗅覚への刺激、声の調子など、およそ美について当てはまるものであれば広く取り上げているのも面白い。
 こうして美と美がもたらす影響について考えてみるのもいいだろう。

  とかいいつつ、個人的には権力欲も金銭欲もほとんど無く、色欲も人並みより劣る私には読み物としては面白かったのだけれども自分の身で切実に考えるには至 らなかった。
 とはいえ、中身はダメ人間だけど一見すると真面目そうな外見と長身痩躯であることは面接に強い理由になっているのかもしれない。
 だとしたら、 今の奴隷労働的な状況から抜け出すのに、良い資質をもっているのかも。かも。
 さあ、頑張ろう!(なにを?)




★ 京都大学生協書評誌/綴葉 2004年10月号
http://www.s-coop.net/teiyo/0410/tokushu.html

なぜ美人ばかりが得をするのか
ナンシー・エトコフ著 木村博江訳 草思社

 アテネ・オリンピックの新体操を見ていた時、友人の一人が言った。「やっぱり同じくらい技術があればきれいな人の方が得だね」と。
 採点に関してそれはな いし、そもそも「きれいな人」とは白人のことか、と思いつつも、その意見を完全に否定するのは意外に難しいと感じた。
 私たちは何を「美」と感じ、そのこと が他のことへの判断にどの程度影響するのだろう。

 著者は心理学者で、本書の分析は認知科学と進化心理学の成果を取り入れたものである。
 帯には「『美人』のナゾを科学が解く!美しさのヴェールをはがす最 新理論」などと書いてある。
 しかし、本書を読み終わったとき、これは「美しさのヴェールをはがす最新理論」などではないと感じた。
 何故なら、本書で明らか にされている「理論」というのは、生殖能力の高さを示す特徴を美と感じる、といった最新でも何でもないものだからである。
 むしろ、本書の面白さは「美しさのヴェールをはがす」ことにではなく、そのヴェールをエッセーのような形で紹介している点である。
 「美人は善人か」「女 性ヌードは誰が見るのか」「女は管理職に向かないか」「刺青やピアスのメッセージ」「ブロンド美人は天使か悪魔か」「やせた体、太った体」「デザイナー信 仰」「声の魅力」…などなど。
 これを見ると「美」の「本質」が生殖に結びついた単純なものであるにしても、それを取り巻く「現象」は文化や時代によって大 きく異なることがわかる。
 特にファッションやステータス効果に関する事例と考察は興味深い。
 本書が訳者の言うほど「科学的」なものであるかはいささか疑問である。
 しかし、ユーモアに満ちた「美」のアンソロジーとしては魅力的なものには違いない。(柳)




★ ちょっと厳しいポップ心理学 2001/3/31 
http://www.ywad.com/books/928.html

 「美人」あるいは「人の美しさ」をテーマとするポップ心理学。

 行動生態学・進化心理学の知見をベースにしている、『優生学の復活?』が心配しているような「生物学的決定論」寄りの本で、このジャンルだととりわけフェミニズム流の文化的決定論が仮想敵となる。

  翻訳出版の時点で削除されたのかもしれないが、参考文献・引用文献のリストがないこともあって、隙が大きすぎるという印象を与える本だった。特 に、人間を被験者とする心理学的実験や調査の結果をどのように引用して利用するかという点での難しさを痛感した。偏見であることを承知で言えば、その手の 研究は結論先にあっての予定調和的なものが少なくなく、それらを本書のような明確な主張を打ち出す本の根拠として引用するのは八百長くさいのである。

 また、著者はアメリカ人であり、これはアメリカ人の読者を対象として書かれた大衆向けポップ心理学の本なのだが、日本人の立場として読んでいると、自文化中心主義からの脱却がいかに難しいかということがよくわかる。最近では『銃・病原菌・鉄』に関して同じような苦情を述べたが、こちらはもっとまずい。まあ、竹内久美子級の本ということで。

  なお、訳者あとがきから、訳者が原題の意味を理解していない様子がみてとれる。"Survival of the Prettiest"は、"Survival of the Fittest"、すなわち「適者生存」(または「最適者生存」)と訳される言葉をもじったものだ。


 いろいいろな方がいろいろな感想をかかれています。
 私が読み終わってちょっとうれしかったのは、引用されている著作に若いときに読んだもがあったことです。

 デイズモンド・モリス「裸のサル」
 ソースタイン・ヴェブレン「有閑階級の理論」

 これにデビッド・リースマン「孤独な大衆」とか、E・H・フロム「自由からの逃亡」などを加えると、学生時代のテキストになってしまいます。



 この本に挟み込まれたいた草思社の2001・2の出版案内をコピーしておきます。





 


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2009年2月16日月曜日

ちいさなミシン:上糸だけで縫える


● ホチキス・ミシン


 家人が日本からもってきたホッチキス・ミシンを手に
 「どこのだと思う」
と、訊ねてきた。
 オモチャだろうから
 「バンダイか、タカラだろう」
と答えた。
 「生協」

 生協?
 ということはオモチャではない。
 1,980円という。

 小学校の頃、オフクロ様にくっついてミシンを買いにいったことがある。
 はるかに半世紀以上も昔のこと。
 ハハウエ様はミシンが欲しくてしょうがなかった。
 そのころ付近でミシンなんて持っている家はなかった。
 この金額、明瞭に覚えている。
 二万六千円。
 とてつもない高額。
 いまの価値になおすと十倍から十五倍くらいはいくだろう。
 もっといくだろうか。
 それから数年して家を造り変えようとしたときの費用が「一坪四万円」というのが記憶にある。
 一坪とは3.3m2.
 ということは2m2の建築工事代金に匹敵する金額。
 「とてつもない」といっても大きく間違ってはいない。

 ちなみにメーカーは三菱。
 「三菱ミシン」なんてあったかな?
と思われる方も多いでしょう。
 調べてみたら、家庭用ミシンはすでに販売しておらず工業用ミシンメーカーになっていました。
 でも三菱ミシンの昔の広告を取り扱ったサイトがありました。
 コピーさせていただきます。


★ 三菱ミシンの広告-昭和を思い出す、レトロなデザインが好き
http://shibugaki.jp/showa/2008/06/post-52.html

三菱ミシンのレトロなデザインの広告。昭和36年のものです。

mitsubishumishin.jpg

 昭和30年代は母親が内職をしている家庭が多かった。
 うちも例外ではなく,母親はモンペを家のミシンで縫っていた。
 外で遊べない雨の日は飽かず眺めたミシンの針。
 何故,糸があんなに紆余曲折した形で道筋を作っているのかが不思議でしようがなかった。
 青い記憶。

 私の家にあったのも三菱ミシンではなかったかと,記憶の端を辿ってみる。
 金色の「MITSUBISHI」に妙に見覚えがあるのです。
 あの頃はジャノメ,シンガー,ブラザー,リッカー。
 工業用でJUKI。
 色々なメーカーがありました。

 「sewing machine」の「マシン」が「ミシン」になったということを聞いた覚えがあります。



 どうにもわからなかったのが、ミシンの構造。
 何故、上から針が下りていくだけで、縫えるのか、論理的におかしいではないか。
 上糸と下糸がどうして絡みつくのか、不可思議この上ない。
 夜な夜な子供の頭で考えていたが分からず、人に聞いても教えてはくれるが、どうもこの人も実際には分かっていないな、と納得するだけ。
 「ミシンとは縫えるものだ」という結論のみで、その疑問は封印してしまった。

 今回、このブログを書くにあたって、往年の子供のときの疑問のフタを開いてみた。
 さすが、世の進歩はすさまじい。
 ちゃんと「ミシンの原理」という項目があって、出てきたのがしたのホームページ。
 クリックすればジャンプしてくれます。


JUKIミシン博物館

ループを作る
針で布を突き刺して戻すと、布の下側に糸がたるんで輪ができます。この輪を“ループ”と呼んでいます。
ミシンの針は片側に溝があり、溝のない方に大きなループができるようになっています。
図 針を布に突き刺す → 図 針を戻すと。。。 → 図 ループができる
針を布に突き刺す   針を戻すと。。。   ループができる
ループに下糸(したいと)を通す
ループの中に別の糸を通して、布から針を抜きます。この別の糸を“下糸”と呼んでいます。
図 針を布から抜き → 図 下糸を通す
針を布から抜き   下糸を通す
上糸を引き上げる
上糸と下糸の結び目が布の真中にくるように上糸を引き上げます。
図 上糸を引き上げる1→図 上糸を引き上げる2
「ループを作る」から「上糸を引き上げる」までの流れをアニメーションで確認!




 要はループにいう輪の中にどうやって下糸を通すかということが、原理の中心になる。


ミシンのメカニズム
実際のミシンではどのようにして縫い目をつくるのか見てみましょう。
釜について
釜ミシンではループに下糸を通すのに、釜と呼ばれる部品を使います。
工業用ミシンで使われている釜を例にとって、この働きを見てみましょう。
釜の構造
釜の構造釜は外釜(そとがま)、内釜(うちがま)、ボビンケース、ボビンに分かれています。外釜と内釜は回転できるように組み立てられています。
ボビンには下糸が巻かれて、ボビンケースに入り、内釜に取り付けられます。
釜のはらたき
剣先ミシンが布を縫うとき、内釜は回転しないように押さえられ、外釜がモーターの力で回転します。

釜には剣先(けんさき)と呼ばれる部分があり、この剣先が上糸のループの中に入ります。
剣先はだんだん太くなっていて、ループがこの部分を通ることでループの輪がどんどん大きくします。
すき間外釜と内釜の間には糸が通れるすき間があり、ループはこのすき間を通って内釜を一周します。
このときにループの中を下糸が通ります。
図 下糸がループの中を通る1→図 下糸がループの中を通る2→図 下糸がループの中を通る3→図 下糸がループの中を通る4→
図 下糸がループの中を通る5→図 下糸がループの中を通る6→図 下糸がループの中を通る7→図 下糸がループの中を通る8
流れをアニメーションで確認!


 ウーン、でも、やっぱり難しい。
 「ミシンは縫う機械だ」と納得しておくだけで十分ということのようです。


 ところで、このホチキス・ミシンだが、釜がない。
 つまり下糸がない。
 さらに難しくなる。
 原理は手に余る。
 紹介だけしておきます。 

 まずは説明書のコピーを。












 テスト用に縫ってみる。
 ホチキスのようにパチンパチンやって縫うのだが、布は自動的には動かないので少しづつ位置がずれるように引っ張ってやる。


● 表:ちょっとギザギザ、本当はまっすぐ縫えますがテスト用にガタピシ縫っている


● 裏:その裏はこうなる、上糸1本で縫える、不思議?


● 付属部品


 本体を写真で。










 縫うときの状態を。









 日本人の持つ発想・創造力、そんなものを面白く感じさせてくれます。
 こだわりとかオタク的なものが詰まっているような気がしているのですが。
 アイデア商品ですが、大きく飛躍する萌芽を含んでいるように思えます。
 アイデアに関してはほとんどゼロ、もう少し頭を使えと怒鳴りたくような国に住んでいると、日本のこの思考の豊かさが、うらましくなってきます。



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