● 1998/12
この本「米内光政」にでてくる宮様がいる。
海軍士官「高松宮」、昭和天皇の弟にあたる。
昭和天皇には三人の弟がいる、秩父宮、高松宮、三笠宮。
天皇を含め他の三人は陸軍士官である、高松宮のみ海軍士官である。
高松宮妃と阿川弘之の対談がある。
「This is 読売」平成十年一月号、二月号である。
これが高松宮妃喜久子著「菊と葵のものがたり」に転載されている。
「高松宮日記」が世にでる経緯が語られている。
読み応えがあります。
失礼ながら一部を適宜抜粋で載せさせていただきます。
真意がゆがめられないように注意していますが、文庫本でも手にはいりますので、詳細は本文をお読みください。
『
妃殿下: 実は昨日、高松宮様のお日柄でした。
ご命日のことです。
昨日お参りしながら、私、「読売新聞に殺された」っていいつけてきたのよ。
そうしたら、宮様が面白いねとおっしゃって、もうそろそろこちらにこないかとおっしゃるから「高松宮日記」が完成するまで参れません、そう申し上げてみました。
だけど、なにしろ私、故人ですからね。まさに幽霊!
(本誌注:先般、読売新聞の一部地域版で、妃殿下を「故人」と誤記しました。改めて、謹んでお詫びいたします)
阿川: 今、お話のような事情で、今日の妃殿下は幽霊としてご登場になります。
お気持ちの整理をつけられたのは、何かきっかけがございましたか。
妃殿下: 読売新聞の渡辺社長が謝罪にいらして、その謝りっぷりがあんまりよかったから、この対談、お受けすることにしたんです。
一時は本気でお断りするつもりだったのよ。
阿川: それではどうぞ、お心おきなく幽霊放談を‥‥。
それにつけても早いもので、大井篤さん、豊田隈雄さん(両氏とも殿下の海軍大学校同期生で「高松宮日記」の編集委員)とご一緒に、お日記の原本を内々拝読するように仰せつかってから、もう四年になります。
その前、殿下が亡くなられて確か四年目でしたか、御用掛がお蔵を整理していて日記の原本を偶然見付けられられたそうですが。
妃殿下: 私、こういう日記があること、全然存じませんでした。
いつお書きになったかも全く知りません。
書斎でお書きになっていらしたのなら、たまには私もそのお姿を拝見したでしょうにね、その記憶が一切ないんです。
阿川: 不思議ですね。
しかし現実にこれだけの膨大なものが存在した。
妃殿下: ただ、よく表の人(事務職員)に、これこれをしまっておけとか、あれを持ってこい、などとおっしゃっていらしたことは存じています。
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今思えば、日本が戦争に負けてから、宮様は煙突のあるところ(邸内の焼却場)へご自分で何か書類のようなう物をもって行っちゃ、焼いていらしたのです。
それも一日や二日ではありません。
何日も何日もです。
阿川: 全部、ご自分で。
妃殿下: はい、たくさんお焼きになっていらした。
あるとき、大井さんに、あれは何を焼かれたのでしょうねとお聞きしたら、アメリカに見せたくないものでしょうとおっしゃっていました。
阿川: 見つかったお日記は、市販の分厚い日記帳で二十冊分でございましたね。
妃殿下: もうびっくりしちゃって‥‥。
これはえらいことになった。
ともかく拝見しなければ、と、私は二度通読しましたの。
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阿川: その後でございますね、靖国神社の宮司さんに意見をお求めになったのは。
妃殿下: この方が即座に、これは世に出してはいけません、火中なさるがいいでしょう、と言うのです。
焼けということですね。--------
それは一理あるかもしれないが、私の気持ちとしてはどうしても納得できない。
もう一度誰かに相談しようと思い、宮様の海軍大学校時代、お友だちでいらした、大井篤、豊田隈雄、実松譲のお三方を呼んで食事を御一緒しながら相談しました。
「いやあ、これは大変なものですな」
と異口同音に驚いて、何かして下さるかと思ったら、御飯だけ食べて帰っておしまいになった。
釈然としないまま、私は大井さんに狙いをつけて、もう一度相談したんです。
ちょうどその時、大井さんは昭和天皇様の御事跡を編纂していらしたので、陛下から宮様に戴いたお手紙なんかもお見せしたら、大変に興奮なさって、お日記にも興味をもたれたようでした。
その後、大井さんは豊田さんとご一緒に見え、一週に一遍ずつでしたかしら、お二人で丹念にお日記の閲読を始めて下さって‥‥‥。
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大井さんが、これは大変な「国宝級の資料」だと言い出されたの。
そして私に内緒で阿川先生にこの仕事を手伝わないかと、という手紙をお出しになったのよ。
阿川: あのお手紙は大変な長文でして、今も大事に保存しております。
それに書いてあったと記憶しますが、妃殿下が、お二人のお年のことをご心配になっていらしていたとか。
妃殿下: 九十二歳です。
阿川: それで妃殿下が、もう少し若くて、海軍のことがある程度わかる作家か何かに手伝ってくれる人はいないだろうか、そうおっしゃったと。
大井さんは、自分が考えるにそんなら君だ、といって私に手紙をくださったのです。
いろいろ事情があって、大分考え込みましたけれど、結局、謹んでお受けいたします、ということで初めて妃殿下にお目にかかりました。
あれは一種の採用試験だと思っております。
妃殿下: あの時先生、汗ばかりかいていらしたわ。
阿川: そりゃ緊張しますもの‥‥。
しかしまあ、何とか合格したらしく、大井さん、豊田さん、私と三人で、密かにお日記の読みにかかったのです。
』
このようにして阿川弘之が高松宮日記の編集にかかわっていくのだが、もちろん、私は「高松宮日記」なるものを読んではいない。
おそらく一般人が読んで面白いものではなく、学術的資料に分類されるものなのであろう。
後ろにそのパンフレットを載せてあります。
対談を続けます。
『
妃殿下: その段階でできれば出版したいと思っていました。
殿下が皇族である以上は、宮内庁にも言っておかなければいけないと思って、大井さんと、もう一人、豊田さんのお二人に、宮内庁長官のところへいっていただいて、こちらの意向を伝えました。
しかし、宮内庁は「やめて欲しい」と言っている、というのです。
宮内庁というところは、そういうところなんですね。
その後で、宮内庁次長が一部でも拝見したい、といってこられた。
私は、ここが大切だと思うところに紙を挟んで、二十冊全部見て戴きました。
----は、初め冷静に読んでいらしたけど、だんだん顔が赤くなってきて、読み終えると
「大変貴重なものだと思いますが、やはりお出しになるのはおやめ戴きたい」といわれた。
そばに私と大井さん、阿川先生もいらしたが、大井さんが怒りましたよ。
テーブルを叩いて怒られた。
阿川: 考えてみますと、歌や雅の道について書かれた親王文書ならほかにもいくらでもあるでしょうが、戦争とか政治とか、文化、社会一般に関して、親王殿下が27年間にわたって二十冊も書き残された日記は、日本の歴史にほとんど前例がないのではありませんか。
それを燃やしてしてまったらどうかとか、発表しないほうがいいとかいうのは、大井さんにしてみれば、とんでもない話でしょう。
「これだけの貴重な資料が発見されたのに、国民に見せてはいけない、出版してもいけないという国が、世界の自由主義圏のどこにあるか。あるなら宮内庁に教えてもらいたい」
と、大井さんが食ってかかりましたね。
次官も強い口調で
「そんな簡単なものではありません」
と反論していましたが、そばで私はハラハラでしたよ。
その後、日を改めて、妃殿下が「宮内庁にはこれの出版を差し止める権限があるのですか」とお聞きになった。
「それはありません」という、宮内庁の返事で、
「それなら私、出すわよ」とおっしゃって。
妃殿下: そう。宮内庁を押し切ったのです。
阿川: 週刊誌などで変に騒がれたりしたら困るので、作業は秘密裏に進めなければならない。
それにはまず編集委員長を決めるのが先決だろう。
では誰がいいか、どんな人なら関係者がみな納得するか、よりより協議を重ねて、結局、細川護貞さんにに委員代表をお引き受け戴くことになった。
細川さんは、学習院時代からの宮様スキー仲間で、宮様に親しく「サダちゃんサダちゃん」と呼ばれて、戦争末期に宮様のプライベートな機密情報係として、最 もおそば近くにいらした方でもありますし、その上、妃殿下のお父上様(徳川慶久公)と細川さんのお父上(細川護立公)がね‥‥。
妃殿下: 大変な仲良しだったのよ。
阿川: 慶久候と護立候とは、学習院高等科の同級生なんです。
ついでに申し上げれば、私の師匠に当たる志賀直哉先生も同級生で、一緒に英語劇なんかやった仲間です。
妃殿下: みんな親しいお友だちだったのよ。
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阿川: 話が少し飛んで、戦争末期のことになりますけど、細川護貞さんの名前が、頻繁に出てきます。
ただし「細川○○時に来る」と、ごく簡単な記述でなんです。
それ以上のことは何も書いてない。
細川さんは、海軍と宮邸と重臣たちとの間を往復して、秘密の情報を宮様にお伝えしているんですが、お日記の上では、素っ気なく「来る」だけなんですね。
実際は東條英機首相暗殺の相談までなさっているんです。
妃殿下には、そういう緊迫したやりとり、やはりお伏せになってたんでしょうか。
妃殿下: 全然覚えていません。
阿川: そのあたりのことは「高松宮日記」では分からないわけですから、興味のある読者には中公文庫の「細川日記」を読んでもらうことにいたしましょう。
その中にもありますが、細川さんは、中大兄皇子が蘇我入鹿を誅した故事など持ち出して、東條を刺すのは私がやりますと。
千三百年前の話でも、細川さんの口から出ると迫力がありますから。
妃殿下: ほんとうにそうね。
阿川: 結局は、御熟慮の末、陛下の大命を拝して首相になった者を自分たちの手で殺すというのはやはりよくない、やめようとおっしゃって、やめることに決まって細川さんは御殿を退出するんですが、品川駅の近くまできたら、細川の殿様、足がぶるぶる震え出したって‥‥。
この話は護貞さんから直接伺いました。
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』
なを、大井氏と豊田氏は老齢のため、編集途中で亡くなられる。
よって主たる編集は阿川弘之によっておこなわれることになる。
運よくもこの本に差し込まれていたその「高松宮日記」出版のパンフレットがありました。
コピーして載せておきます。
ちなみに、「菊と葵のものがたり」の中でも米内光政が出てくる。
「イギリス皇室の思い出」の中で、途中上海に寄ったときの部分に出てくる。
『
上海には、十五年後日本敗戦降伏の際、重大な役割を果たす外交官の重光葵さんと、海軍の米内光政さんが在勤しておられた。
黄浦江の濁流を溯って上海に着いたのは4月の29日、天長節の佳き日であった。
私たちは上陸して総領事館を訪れ、重光代理公使はじめ邦人たちとともに、祝賀会に臨んだ。
つづいて在留外交団を招いてのリセプションが催され、それを終えてから米内さんが司令官をしている第一遣外艦隊の旗艦「平戸」へ行って司令官主催の午餐会に出席した。
米内さんはなかなか風格のある提督だったが、当時未だ少将で、この人が将来、滅亡の淵から国を救う役を果たされるなどと、むろん私は想像することすら出来なかった。
』
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