● 1976/11
最近読んだのがこの本。
二、三日前に、映画のアカデミー賞で納棺師を題材にした「おくりびと」がアワードをとった。
世界百カ国で上映される予定だという。
来たらぜひとも観てみたいと思う。
この本「余白のあるカンヴァス 第25章:生と死と」から抜粋で。
『
アメリカ人の中には、家族で旅行に出る場合は、事故にそなえて、たとえば母親とある子供が一機に、そして別の子供と父親とがもう一機に乗るという具合に、別々に旅行する者もあることを話すと、マスオはすっかりびっくりしたようだった。
アメリカ人は、マスオ(注:池田満寿夫)をつかまえては、日本人の死に対する態度について問い質そうとする。
彼らの心の中では日本そのものを象徴することども、すなわち切腹(ハラキリ)だの心中だのといった、アメリカ人のものの考え方とはまったく相容れがたい精神が不思議でならないのだ。
例の三島由紀夫のセンセーショナルな自殺のことが、ニューヨーク・タイムズの第一面に載ってからは、何週間ものあいだ、私たちは質問の矢から逃れることはできなかった。
「身の毛がよだつ」と言うものがいるかと思えば、「あれほど美しい精神があるなんて想像もできない」という女性もいた。
アメリカでは、自殺といえばたいてい絶望のはての行為、病んだ人の行うこととされていて、決して名誉ある行為とか自己犠牲の証などとはみなされない(ただし、芸術家の自殺的な死だけは、ロマンテイックに美化され神秘視されて、彼らは英雄になる)。
日本人が「英語では”心中”のことはなんて言うんですか?」と訊ね、私が「二人一組自殺(ダブル・スイサイド)」と答えると、たいてい彼らは笑い出す。
メキシコに行った時、私はまずメキシコ人たちの「死への傾倒と陶酔」とに強い影響をうけたのだけど、その時、いかにアメリカ人が、死というものを否定しているかということに気づいたのだった。
まるで、「死など存在しない」というフリをすれば、望みどおり意志どうりに死を遠ざけることができる、とでもいうように。
老齢についても同じことがいえる。
ところが日本に来て、私はふたたび生と死との密着、生と死とが一体になっているのを感じたのだ。
私はほとんどその場にいたたまれなくなって、一人ポツンと離れたところに立っていた。
私たちは火葬場にいた。
マスオと彼の父、そして親類たちが、彼の母親の骨を長い箸のような道具を使って、小さな陶製の壺に入れている。
そうしながら、みんなで故人の思い出を話しあっているのだ。
どうしてこんなことができるのだろう?
いや、そうではない。
問題は逆だ。
「どうして私にはできないのだろう。」
日本に長く暮らしているドイツ人の友だちは、私に心の準備ができていなくてはショックが大きすぎるにちがいないと心配し、前もって死者に対する日本の習慣をことこまかに説明してくれていた。
彼女の友人のあるアメリカ人は、とある小さな山村で行われた彼女の夫の母の葬儀に出たのだが、その精神的ショックのために、精神錯乱に陥ってしまったという。
その場でどういうことが行われるか、彼女は前もって何ひとつ知らなかったのだ。
私の場合は、あらかじめ大体のことはわかっていた、とはいうものの、それでもなお、アメリカ人としての私の考え方や感じ方が邪魔して、感情的にはとてもついて行けたものではなかった。
「ほら、歯があった。あ、これ頭蓋骨かしらね。」
「いいや、そうじゃないだろう。おおきすぎるよ。どこにあるか捜さなくちゃ。もっと上の方じゃないかね‥‥。」
ああ、私はなんと自然から遠ざかってしまったのだろう。
私は麻痺したようにその場に立ち尽くし、そう考えていた。
1971年10月のことだ。
ニューヨークでは、父が死んだ時、私たちが検屍官のところに報告すると、まずただちに警官がやって来て(法律でそう決められているのだ)、葬儀屋が遺体を引き取りに来るまで私たちと一緒に座って待っていた。
バッジをつけて青い制服に身を包んだ警官の巨体は、絵でいっぱいの、東十丁目の父の大切なスタジオの中にあって、実に目障りな要素、勘にさわる存在だった。
彼の意味のないおしゃべりは、私のもの思いをいちいち粉々にくだいた。
それから次に、遺体は葬儀場にはこばれ、埋葬の準備がされ、棺の中に納められた。
そのあいだ、私たちは何ひとつ手を下すことはできないのだった。
その畳敷きの部屋で、マスオと彼の親戚の者たちは、手ずから彼女の体を清め、経帷子を着せた。
夜になって、皆がひとりひとり彼女のそばにひざまずき、ある者は話しかけ、ある者は遺体に触れ、ある者は泣いた。
幼い子供でさえ、彼女の死に顔を見るのだ。
ニューヨークでは、話題が「死」のことに移ると、子供は席をはずすように言われることを、その時私は思い出した。
死は子供たちの前では口にできない話題なのだ。
その晩は私たちも、遺体と一つ屋根の下で寝た。
翌日、火葬場に着いた私たちは、彼女に最後の対面をし、棺のふたを釘で打ちつけ、棺が炉の中へ送りこまれるのを見守った。
しばらくのちに、彼女はふたたび出てきた-----盆の上の骨、骨のかけらとなって-----。
アメリカではいまでも土葬が一般的だけど、火葬にする場合、骨ではなく「灰」が壺の中に納められる。
壺ごと遺族の家の暖炉の上に置かれていることもあり、灰を撒き、風が吹き運ぶにまかせることもある。
ある友だちは、ちいさなボートを漕いで、亡き夫が愛してやまなかった故郷に近い海に出、そこに灰を撒いたという。
長年海外での生活を送っている日本人から、死ぬ時は日本に帰って死にたいという言葉を私はたびたび耳にする。
はじめてそれを聞いた時、私はぎょっとしてしまった。
私も相当「死」という想念に取り憑かれている方だけれど、「どこで死にたいか」ということは、それまで考えてみたこともなかったからだ。
ほかならぬマスオも、今はアメリカ暮らしが大いに気に入っているけど、歳をとったらにほんで暮らすほうが気持ちが安らぐだろう、とよく言う。
「自分の故国で死ぬ」とはいったいどういうこといなのか。
マスオはそれを「血」のせいだという。
日本人に独特な現象、「日本回帰」 なのだ、と。
彼によると、西洋文化の研究者でさえ、歳をとるにつれて、次第に自国の文化、東洋的な伝統の方に目を向けはじめるのだそうだ。
』
もう十余年の昔になる。
オヤジ様をこの地で見送った。
「遺体は日本に運びますか、こちらで焼きますか」
と、問われて、こちらで、と答えた。
「骨はクラッシュしてしまいますが、いいですか」
意味はよくわからなかったのだけで、それがこちらの慣習ならそれはそれでいいと思った。
斎場にいき、最後のお別れをした。
セレモニーはそれだけ。
いつ焼かれるかは、斎場の都合による。
3,4日後に骨を引き取りにいった。
大きなプラスチックのタッパウエアにぎっしり詰まった灰をビニール袋に入れて「はい」と渡され、持って帰ってきた。
壺などではなかった。
まちがいなく「タッパウエア」であった。
半透明の四角い密閉パック式の、キッチンにおいてあるヤツである。
隅にそのシールも貼ってあった。
● 斎場明細
クラッシュとは灰にすること。
1/4くらいを自宅に撒いて、残りは日本にもって帰り、墓に入れた。
「これが仏様です」と咽喉仏を見せられたり、丸い頭蓋骨を二人一組でつまんだりすると、「ウーン、これは」と思い墓に入れなければと思うが、クラッシュして灰にしたら、人間かカンガルーかの区別もつかない。
カンガルーに墓がないなら、人間にも墓などいらない、とそう思っても不思議ではないような気分になってくる。
風に撒き散らしても、海に流しても、灰なら自然である。
人間が動物としての種なら、それでもいいと思えてくる。
この本は33年前のもの、1/3世紀前になる。
「日本人の血」あるいは「日本回帰」なるものもいまだに主流にあるのだろうか。
私はあの灰を見たとき、私もああなりたい、死んで形を残したくない、そして海に流してもらいたい、そう思った。
「生きるとは未練である」
死んだあとも未練の残骸を後生大事に保存されるということは、未練が往生できないということになる。
墓などいらない。
狭苦しい暗い寒い石室に入れられることを考えるだけでゾッツとする。
「もし骨が風邪をひいたらどうするのだ、可哀想ではないか」
と、冗談を本気で言ったほど。
戒名など、金を払ってもらってどうなる。
自分で好きな死後の名前を作った。
木っ端で高さ10センチほどの位牌も作った。
これに黒のメタリックのスプレーペイントを吹きかければ立派な「手作り位牌」ができる。
これにパソコンで好きな字体を選んで戒名を印刷し、貼り付けた。
見事みごと。
これで思い残すことはない、ということにする。
「墓などいれるな」
「十二支が巡り回ったら、この手作り位牌は焼却せよ」
子どもが親のわずらいを背負い込むことはない。
ちなみに、日本にある墓は日本にいるヤツがお参りせよ。
ご先祖さまが眠っておられる。
正直なところご先祖さまのことなどまるで知らないのだが。
日本にいなかったら、どうなる。
無縁仏にしてしまえ。
日本では三代で無縁仏になるという。
おおいに結構。
何も「血」なんぞに煩わされることはない。
「家」なんどに囚われることはない。
そういうしがらみは、正統血筋の私が全部背負ってあの世に行ってやる。
やはりダンダン発言が過激になってくる。
てな大言壮語しているが、もしかしたら数代後の子孫は、我がルーツを求めて日本にいくことになるかもしれない。
なんで、ご先祖様は「家系をぶっちぎってしまった」のだ、という恨みを抱いて。
それも、歴史のドラマである。
だから面白い。
今日の正論は明日の正論ではないのである。
『
★ 「おくりびと」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=E_z0_MLvwvw
』
【追記】
「バグース」の4月号にアカデミー賞の記事が載っていた。
その一部を抜粋でタイプしてみます。
● BAGGUSE 2009年4月号
『
★ シネマ 日本映画、悲願の受賞
発端は、1996年までにさかのぼる。
主演・本木雅弘と、書籍「納棺夫日記」の出会いだ。
冠婚葬祭などの携わった青木新門が、自身の体験をつづった著書に感銘を受けた本木は、映画化の許可をとりつける。
しかし、ロケ地や結末などの相違点を指摘され、一度とりつけた映画化の話が白紙となってしまった。
あきらめずに何度も打診した本木の思いがかない、「全く別の作品としてやるなら」という意向を受けて、タイトルも一新したのが「おくりびと」。
10年以上もの長期間あたためられたこの作品は、厳正な葬儀の場に、笑いも交えながら遺族たちの愛情を描いた、胸に染み入る内容となっている。
本木演ずるチェロ奏者・大悟は、所属する楽団が解散したため、妻とともに帰郷し、就職先を探していた。
「旅のお手伝い」というコピーと待遇に惹かれて面接した会社の仕事は「納棺師」。
故人を着替えさせ、死に化粧を施し、一番美しい状態へと蘇らせたのち、棺に遺体を納める仕事だ。
ほかにあてがない大悟はしぶしぶ就職を決めるが、徐々に納棺師の仕事に誇りを持つようになる。
大悟は妻や友人から、納棺師という仕事についてなかなか理解を得られない。
そのやり取りは、私たちが無意識に抱いている、死というものに対しての偏見を示すようで、思わずドキッとさせられる。
しかし、ストーリーが進むにつれ、永遠の旅立ちへのサポートをする納棺師という仕事や、死そのものに対しての見方が変わっていくことだろう。
女性にしか見えないニューハーフ、幼い子どもを残した母親、たくさんのキスマークと一緒に送られる祖父‥‥。
それぞれにしかないたった一つの人生があり、その人生に関わった人たちが織り成す、たった一つの別れがある。
深い悲しみと隣あわせでありながら、どこか癒される空気は、決して派手ではないのに観た者の心を打つ。
久石譲が手がけるサントラ、3月に発売のDVDなどもあわせて、独特の世界観にどっぷり浸りたい。
』
【Home】
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最近読んだのがこの本。
二、三日前に、映画のアカデミー賞で納棺師を題材にした「おくりびと」がアワードをとった。
世界百カ国で上映される予定だという。
来たらぜひとも観てみたいと思う。
この本「余白のあるカンヴァス 第25章:生と死と」から抜粋で。
『
アメリカ人の中には、家族で旅行に出る場合は、事故にそなえて、たとえば母親とある子供が一機に、そして別の子供と父親とがもう一機に乗るという具合に、別々に旅行する者もあることを話すと、マスオはすっかりびっくりしたようだった。
アメリカ人は、マスオ(注:池田満寿夫)をつかまえては、日本人の死に対する態度について問い質そうとする。
彼らの心の中では日本そのものを象徴することども、すなわち切腹(ハラキリ)だの心中だのといった、アメリカ人のものの考え方とはまったく相容れがたい精神が不思議でならないのだ。
例の三島由紀夫のセンセーショナルな自殺のことが、ニューヨーク・タイムズの第一面に載ってからは、何週間ものあいだ、私たちは質問の矢から逃れることはできなかった。
「身の毛がよだつ」と言うものがいるかと思えば、「あれほど美しい精神があるなんて想像もできない」という女性もいた。
アメリカでは、自殺といえばたいてい絶望のはての行為、病んだ人の行うこととされていて、決して名誉ある行為とか自己犠牲の証などとはみなされない(ただし、芸術家の自殺的な死だけは、ロマンテイックに美化され神秘視されて、彼らは英雄になる)。
日本人が「英語では”心中”のことはなんて言うんですか?」と訊ね、私が「二人一組自殺(ダブル・スイサイド)」と答えると、たいてい彼らは笑い出す。
メキシコに行った時、私はまずメキシコ人たちの「死への傾倒と陶酔」とに強い影響をうけたのだけど、その時、いかにアメリカ人が、死というものを否定しているかということに気づいたのだった。
まるで、「死など存在しない」というフリをすれば、望みどおり意志どうりに死を遠ざけることができる、とでもいうように。
老齢についても同じことがいえる。
ところが日本に来て、私はふたたび生と死との密着、生と死とが一体になっているのを感じたのだ。
私はほとんどその場にいたたまれなくなって、一人ポツンと離れたところに立っていた。
私たちは火葬場にいた。
マスオと彼の父、そして親類たちが、彼の母親の骨を長い箸のような道具を使って、小さな陶製の壺に入れている。
そうしながら、みんなで故人の思い出を話しあっているのだ。
どうしてこんなことができるのだろう?
いや、そうではない。
問題は逆だ。
「どうして私にはできないのだろう。」
日本に長く暮らしているドイツ人の友だちは、私に心の準備ができていなくてはショックが大きすぎるにちがいないと心配し、前もって死者に対する日本の習慣をことこまかに説明してくれていた。
彼女の友人のあるアメリカ人は、とある小さな山村で行われた彼女の夫の母の葬儀に出たのだが、その精神的ショックのために、精神錯乱に陥ってしまったという。
その場でどういうことが行われるか、彼女は前もって何ひとつ知らなかったのだ。
私の場合は、あらかじめ大体のことはわかっていた、とはいうものの、それでもなお、アメリカ人としての私の考え方や感じ方が邪魔して、感情的にはとてもついて行けたものではなかった。
「ほら、歯があった。あ、これ頭蓋骨かしらね。」
「いいや、そうじゃないだろう。おおきすぎるよ。どこにあるか捜さなくちゃ。もっと上の方じゃないかね‥‥。」
ああ、私はなんと自然から遠ざかってしまったのだろう。
私は麻痺したようにその場に立ち尽くし、そう考えていた。
1971年10月のことだ。
ニューヨークでは、父が死んだ時、私たちが検屍官のところに報告すると、まずただちに警官がやって来て(法律でそう決められているのだ)、葬儀屋が遺体を引き取りに来るまで私たちと一緒に座って待っていた。
バッジをつけて青い制服に身を包んだ警官の巨体は、絵でいっぱいの、東十丁目の父の大切なスタジオの中にあって、実に目障りな要素、勘にさわる存在だった。
彼の意味のないおしゃべりは、私のもの思いをいちいち粉々にくだいた。
それから次に、遺体は葬儀場にはこばれ、埋葬の準備がされ、棺の中に納められた。
そのあいだ、私たちは何ひとつ手を下すことはできないのだった。
その畳敷きの部屋で、マスオと彼の親戚の者たちは、手ずから彼女の体を清め、経帷子を着せた。
夜になって、皆がひとりひとり彼女のそばにひざまずき、ある者は話しかけ、ある者は遺体に触れ、ある者は泣いた。
幼い子供でさえ、彼女の死に顔を見るのだ。
ニューヨークでは、話題が「死」のことに移ると、子供は席をはずすように言われることを、その時私は思い出した。
死は子供たちの前では口にできない話題なのだ。
その晩は私たちも、遺体と一つ屋根の下で寝た。
翌日、火葬場に着いた私たちは、彼女に最後の対面をし、棺のふたを釘で打ちつけ、棺が炉の中へ送りこまれるのを見守った。
しばらくのちに、彼女はふたたび出てきた-----盆の上の骨、骨のかけらとなって-----。
アメリカではいまでも土葬が一般的だけど、火葬にする場合、骨ではなく「灰」が壺の中に納められる。
壺ごと遺族の家の暖炉の上に置かれていることもあり、灰を撒き、風が吹き運ぶにまかせることもある。
ある友だちは、ちいさなボートを漕いで、亡き夫が愛してやまなかった故郷に近い海に出、そこに灰を撒いたという。
長年海外での生活を送っている日本人から、死ぬ時は日本に帰って死にたいという言葉を私はたびたび耳にする。
はじめてそれを聞いた時、私はぎょっとしてしまった。
私も相当「死」という想念に取り憑かれている方だけれど、「どこで死にたいか」ということは、それまで考えてみたこともなかったからだ。
ほかならぬマスオも、今はアメリカ暮らしが大いに気に入っているけど、歳をとったらにほんで暮らすほうが気持ちが安らぐだろう、とよく言う。
「自分の故国で死ぬ」とはいったいどういうこといなのか。
マスオはそれを「血」のせいだという。
日本人に独特な現象、「日本回帰」 なのだ、と。
彼によると、西洋文化の研究者でさえ、歳をとるにつれて、次第に自国の文化、東洋的な伝統の方に目を向けはじめるのだそうだ。
』
もう十余年の昔になる。
オヤジ様をこの地で見送った。
「遺体は日本に運びますか、こちらで焼きますか」
と、問われて、こちらで、と答えた。
「骨はクラッシュしてしまいますが、いいですか」
意味はよくわからなかったのだけで、それがこちらの慣習ならそれはそれでいいと思った。
斎場にいき、最後のお別れをした。
セレモニーはそれだけ。
いつ焼かれるかは、斎場の都合による。
3,4日後に骨を引き取りにいった。
大きなプラスチックのタッパウエアにぎっしり詰まった灰をビニール袋に入れて「はい」と渡され、持って帰ってきた。
壺などではなかった。
まちがいなく「タッパウエア」であった。
半透明の四角い密閉パック式の、キッチンにおいてあるヤツである。
隅にそのシールも貼ってあった。
● 斎場明細
クラッシュとは灰にすること。
1/4くらいを自宅に撒いて、残りは日本にもって帰り、墓に入れた。
「これが仏様です」と咽喉仏を見せられたり、丸い頭蓋骨を二人一組でつまんだりすると、「ウーン、これは」と思い墓に入れなければと思うが、クラッシュして灰にしたら、人間かカンガルーかの区別もつかない。
カンガルーに墓がないなら、人間にも墓などいらない、とそう思っても不思議ではないような気分になってくる。
風に撒き散らしても、海に流しても、灰なら自然である。
人間が動物としての種なら、それでもいいと思えてくる。
この本は33年前のもの、1/3世紀前になる。
「日本人の血」あるいは「日本回帰」なるものもいまだに主流にあるのだろうか。
私はあの灰を見たとき、私もああなりたい、死んで形を残したくない、そして海に流してもらいたい、そう思った。
「生きるとは未練である」
死んだあとも未練の残骸を後生大事に保存されるということは、未練が往生できないということになる。
墓などいらない。
狭苦しい暗い寒い石室に入れられることを考えるだけでゾッツとする。
「もし骨が風邪をひいたらどうするのだ、可哀想ではないか」
と、冗談を本気で言ったほど。
戒名など、金を払ってもらってどうなる。
自分で好きな死後の名前を作った。
木っ端で高さ10センチほどの位牌も作った。
これに黒のメタリックのスプレーペイントを吹きかければ立派な「手作り位牌」ができる。
これにパソコンで好きな字体を選んで戒名を印刷し、貼り付けた。
見事みごと。
これで思い残すことはない、ということにする。
「墓などいれるな」
「十二支が巡り回ったら、この手作り位牌は焼却せよ」
子どもが親のわずらいを背負い込むことはない。
ちなみに、日本にある墓は日本にいるヤツがお参りせよ。
ご先祖さまが眠っておられる。
正直なところご先祖さまのことなどまるで知らないのだが。
日本にいなかったら、どうなる。
無縁仏にしてしまえ。
日本では三代で無縁仏になるという。
おおいに結構。
何も「血」なんぞに煩わされることはない。
「家」なんどに囚われることはない。
そういうしがらみは、正統血筋の私が全部背負ってあの世に行ってやる。
やはりダンダン発言が過激になってくる。
てな大言壮語しているが、もしかしたら数代後の子孫は、我がルーツを求めて日本にいくことになるかもしれない。
なんで、ご先祖様は「家系をぶっちぎってしまった」のだ、という恨みを抱いて。
それも、歴史のドラマである。
だから面白い。
今日の正論は明日の正論ではないのである。
『
★ 「おくりびと」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=E_z0_MLvwvw
』
【追記】
「バグース」の4月号にアカデミー賞の記事が載っていた。
その一部を抜粋でタイプしてみます。
● BAGGUSE 2009年4月号
『
★ シネマ 日本映画、悲願の受賞
発端は、1996年までにさかのぼる。
主演・本木雅弘と、書籍「納棺夫日記」の出会いだ。
冠婚葬祭などの携わった青木新門が、自身の体験をつづった著書に感銘を受けた本木は、映画化の許可をとりつける。
しかし、ロケ地や結末などの相違点を指摘され、一度とりつけた映画化の話が白紙となってしまった。
あきらめずに何度も打診した本木の思いがかない、「全く別の作品としてやるなら」という意向を受けて、タイトルも一新したのが「おくりびと」。
10年以上もの長期間あたためられたこの作品は、厳正な葬儀の場に、笑いも交えながら遺族たちの愛情を描いた、胸に染み入る内容となっている。
本木演ずるチェロ奏者・大悟は、所属する楽団が解散したため、妻とともに帰郷し、就職先を探していた。
「旅のお手伝い」というコピーと待遇に惹かれて面接した会社の仕事は「納棺師」。
故人を着替えさせ、死に化粧を施し、一番美しい状態へと蘇らせたのち、棺に遺体を納める仕事だ。
ほかにあてがない大悟はしぶしぶ就職を決めるが、徐々に納棺師の仕事に誇りを持つようになる。
大悟は妻や友人から、納棺師という仕事についてなかなか理解を得られない。
そのやり取りは、私たちが無意識に抱いている、死というものに対しての偏見を示すようで、思わずドキッとさせられる。
しかし、ストーリーが進むにつれ、永遠の旅立ちへのサポートをする納棺師という仕事や、死そのものに対しての見方が変わっていくことだろう。
女性にしか見えないニューハーフ、幼い子どもを残した母親、たくさんのキスマークと一緒に送られる祖父‥‥。
それぞれにしかないたった一つの人生があり、その人生に関わった人たちが織り成す、たった一つの別れがある。
深い悲しみと隣あわせでありながら、どこか癒される空気は、決して派手ではないのに観た者の心を打つ。
久石譲が手がけるサントラ、3月に発売のDVDなどもあわせて、独特の世界観にどっぷり浸りたい。
』
【Home】
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